太田述正コラム#3936(2010.4.8)
<パール・バック(その3)>(2010.7.31公開)
 (3)『大地』以降
 「・・・バックの小説群が劇的な成功を収めたことが彼女の人生を変えた。
 彼女は、自分の本の<新たな>出版者であったところの、リチャード・ウォルシュ(Richard Walsh)と結婚し、米国に帰国した(注3)。
 (注3)私の記憶の中のバックに近い、老年のバック。↓
http://www.google.co.jp/imglanding?q=Pearl%20Sydenstricker%20Buck&imgurl=http://www.georgetowncollege.edu/StuOrg/KD/MandyShannon_website/images/buck.gif&imgrefurl=http://www.georgetowncollege.edu/StuOrg/KD/MandyShannon_website/Famous%2520KDs.htm&h=384&w=346&sz=67&tbnid=PILnDt2p1o_RqM:&tbnh=123&tbnw=111&prev=/images%3Fq%3DPearl%2BSydenstricker%2BBuck&hl=ja&usg=__fWpRrS22RhJ9n9K3lXqMkE7AFMk=&ei=TCu8S-GcDdegkQWHn-mSCA&sa=X&oi=image_result&resnum=5&ct=image&ved=0CCMQ9QEwBA&start=0#tbnid=PILnDt2p1o_RqM&start=1
 夫を「乗り換えた」頃のバックはこんな感じ↓か。
http://en.wikipedia.org/wiki/File:Pearl_Buck.jpg
 二人は、更に5人の子供達を養子にし、<米国>最初の国際的な、人種を問わない養子仲介機関たるウェルカム・ハウス(Welcome House)を設立した。
 彼女の人生の最後の40年間、バックは大勢の聴衆に到達するところの、フィクションの重要性に対する信仰を失うことがない人気小説家となり、・・・精神障害の子供達の面倒を見ること、人種的・性的平等の頑固な擁護者となった。・・・」(B)
 「・・・1935年に、彼女の人生の第二の段階が始まった。
 彼女は米国に移り、夫と離婚し、<再婚し、5人の養子をとり、>がむしゃらに書き続けたのだ。・・・
 ・・・二番目の夫が亡くなると、彼女はどんどん孤立していき、80歳で亡くなった。・・・」(D)
 「・・・支那での戦争と、彼女の娘にとっての必要性から、バックは米国に戻った。
 ・・・戸は彼女の後ろで勢いよく閉められ、彼女は二度と支那に戻ることはなかった。・・・」(A)
 「・・・バックの後半生は、彼女がついに理解することがなかった米国で、女王様として送られた・・・、・・・」(C)
→果たしてそうでしょうか。彼女は、典型的な米国流名士としての後半生を送ったと言えるのではないでしょうか。(太田)
 「・・・ウォルシュが亡くなった時、彼女は、自分の娘達の若きダンス教師であったセオドア・ハリス(Theodore Harris)を新しい伴侶にした。
 彼は、バックのマネジャーとなり、バックを改造した。
 米国人とアジア人との混血の寄る辺のない子供達を教育するためにパールバック財団(Pearl S. Buck Foundation)が設立され、ハリスはその年俸45,000ドルの終身専務理事(chief executive)になり、バックは理事長として、資金集めのための舞踏会に、サテンのガウンを着て高価な宝飾類を身につけ、従者に取り囲まれながら、まるで清朝最後の皇后のように立ち現れるのを常とした。
 ハリスは、彼女の協力を得ながら、『パール・S・バック–伝記(Pearl S. Buck: A Biography)』を出版した。
 ・・・1970年・・・<にその>ハリスが、この財団のカネを横領し、若い韓国人の男の子達に性的いたずらをしたこと<が判明し、>非難された。
 パールは77歳だったが、ハリスと袂を分かち、ヴァーモント州で隠遁生活を始めた。
 その時引き連れて行ったのは、ハリスのダンス教師仲間達であり、彼等のためにバックは古物商店をつくってやり、自分自身はその店の上の階で生活した。・・・」(F)
 
 「・・・<中共は、>1960年に彼女は米帝国主義者であるとこきおろし、1972年には、彼女がその人生の半分を過ごした国を訪問するビザの申請を周恩来が自ら却下した。
 彼女の作品は中共では禁書に指定されていた一方で、米国ではFBIが彼女が共産主義シンパではないかと監視下に置いていた。・・・」(A)
→支那人の阿Q性や軍閥、中国国民党等を批判する視点のない、支那滞在当時のバックの諸著作や、その後の(私が少6の時に読まされたバックの映画の脚本から想像できるところの、)バックの東アジアの人々を見下ろすような諸著作は、私だけでなく、中共当局のお気にも召さなかったのは当然でしょう。
 その後の中共当局のバック評価の変化は、米中接近に伴う政治的配慮の結果にほかならないと思われます。(太田)
 
 「・・・彼女の人種主義に対する勇敢なキャンペーンにより、彼女にはアカ(Commie)という渾名がつき、彼女はFBIの分厚い悪意に満ちたファイルに記帳された。
→FBIにしてみれば、バックのような米国人の「活躍」が、支那における中国共産党支配をもたらした以上、バックが注意人物としてファイリングされるのはごく自然なことだったことでしょう。(太田)
 彼女はまた、発達障害をもって生まれた子供達を守る戦争にも従事した。
 これらの子供達は、当時、口にすることさえはばかられる存在であり、彼等は、ベッドさえ碌にあてがわれないことがある諸機関にしばしば預けられていた。・・・
 ・・・彼女の最も驚くべき業績は、1世紀にもわたったところの、支那人が米国に永住することを禁ずる、ひどく人種主義的な諸法を撤廃させたことだ。・・・」(E)
→結果としてバックの貢献があったとしても、むしろ、そんな差別的法律群がそんな頃まで生き残っていた方が問題。
 米国の人種主義的宿痾がどれほどのものか、分かろうというものです。(太田)
 「・・・<この伝記の著者は、>次第に非現実的なものになって行ったパール・バックのフィクションは、ハリスと袂を分かった後に共にあったハリスの元ダンス教師仲間達との生活と密接に関係していた、と指摘する。・・・
 古い宣教師の友達が彼女を表敬訪問した時のことだ。
 バックのぞっとするような最晩年の姿がそこにあった。
 「我々はパール・S・バックについて、さんざんご託を聞かされた後、ようやく彼女が現れた。
 彼女は、・・・とても古式ゆかしく、とても劇的で、とても不動だった。
 また、とても東洋的で、なぞのような趣だった。
 彼女はそこにいて、とても恵み深い様子だったが、それでいて、彼女はそこにはいなかった。
 彼女は、とても遠くにいる感じだった。
 まるで彼女は囚われ人のように見えた」と。・・・」(C)
→東洋的でも何でもありません。
 必ずしも幸せでなかった女性の最晩年として、ごくありふれた姿ではないでしょうか。(太田)
(続く)