太田述正コラム#4004(2010.5.12)
<帝国陸軍の内蒙工作(その2)>(2010.9.6公開)
 (2)蒙古と満州
 森教授は、正しくも、帝国国防方針から筆を説き起こしているのですが、陸軍の内蒙古工作を論じるのであれば、外蒙古がどうなっていたのか、そして、「帝国外交方針」で言及される満州国成立について、記す必要があるのに、それをしていません。
 私が代わってそのあたりのことをざっとまとめてみました。
 まず最初に、これは、私の言う横井小楠コンセンサスとは違って、露骨な領土拡大を唱えたものですが、江戸時代後期に、佐藤信淵は、1823年(文政6年)に著した『混同秘策』で「凡そ他邦を経略するの法は、弱くして取り易き処より始るを道とす。今に当て世界万国の中に於て、皇国よりして攻取り易き土地は、支那国の満洲より取り易きはなし」、吉田松陰は、1854年(安政元年)に記した『幽囚録』で「北は満洲の地を割き、南は台湾、呂宋諸島を収め、進取の勢を漸示すべし」という主張をしています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%80%E5%B7%9E%E5%9B%BD
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E7%94%B0%E6%9D%BE%E9%99%B0
(5月12日。以下同じ)
 さて、明治維新直前、1858年のアイグン条約でアムール川以北が、1860年の北京条約でウスリー川以東が、清からロシアに割譲され外満州がすべてロシア領になります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%96%E6%BA%80%E5%B7%9E 
 1900年(明治33年)、ロシアが義和団事変に乗じて満洲を占領したため、日本は米国などとともに満洲の各国への開放を主張し、さらに1902年、英国と日英同盟を結びます。
 そして、1904年(明治37年)から翌年にかけて日露戦争が起こり、陸戦が満州の地で行われ、戦勝国となった日本は、ポーツマス条約で朝鮮半島を勢力圏とするとともに遼東半島の租借権と東清鉄道南部の経営権を獲得します。
 その後、日本は、ロシアと共同して満洲の権益の確保に乗り出すようになり、米国の反発を招くことになります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%80%E5%B7%9E%E5%9B%BD 上掲
 具体的には、日露両国は、1907年(明治40年)の第一次日露協約では、日本は南満州、朝鮮(大韓帝国)、ロシアは北満州、外蒙古をそれぞれの勢力圏として認め合い、辛亥革命を背景に、1912年(明治45年)の第三次日露協約辛亥革命では、内蒙古の西部をロシアが、東部を日本がそれぞれの勢力圏として認め合ったのです。(注1)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E9%9C%B2%E5%8D%94%E7%B4%84
 (注1)この状況について、当時日本に在住していたポルトガルの外交官ヴェンセスラウ・デ・モラエスは、「日米両国は近い将来、恐るべき競争相手となり対決するはずだ。広大な中国大陸は貿易拡大を狙うアメリカが切実に欲しがる地域であり、同様に日本にとってもこの地域は国の発展になくてはならないものになっている。この地域で日米が並び立つことはできず、一方が他方から暴力的手段によって殲滅させられるかもしれない」との自身の予測を祖国の新聞に伝えている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%80%E5%B7%9E%E5%9B%BD 前掲
 ところが、1917年にロシア革命が起こり、1922年に成立したソ連政府によってこの協約は破棄されてしまいます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E9%9C%B2%E5%8D%94%E7%B4%84 前掲
 さて、1918年のブレストリトフスク条約締結を期にロシア内戦が始まり、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%AC%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%AA%E3%83%88%E3%83%95%E3%82%B9%E3%82%AF%E6%9D%A1%E7%B4%84
日本は、米国、英国らとともにロシア干渉戦争(日本で言うシベリア出兵)を始めます。
 この混乱の中、1921年に白露軍部隊が外蒙古を占領し、ラマ教僧による政府が中華民国(北京政府)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E4%BA%AC%E6%94%BF%E5%BA%9C
に対して独立を宣言しますが、ただちに共産勢力による革命が起き、白露軍部隊と中華民国部隊は外蒙古から駆逐され、ラマ教僧を名目上の元首とする共産政権が樹立され、このラマ教僧の死去に伴い、1924年にはソ連の保護国たるモンゴル人民共和国が成立します。
http://en.wikipedia.org/wiki/Mongolian_People’s_Republic 
 これに対して、日本は荏苒手を拱いたまま、1922年、外満州から全日本軍を撤退させます。(ただし、1925年まで北サハリンの占領は続けます。)
 原暉之は、「<シベリア派遣軍で参謀を務め、後に>陸相、文相となる荒木貞夫にみられる如く、この戦争に関わった日本の軍人はロシア革命と民族解放運動に敵意を深めた。そればかりか日本の国民大衆も尼港事件などに関連した反ソ・反革命キャンペーンの虜となった。1925年の日ソ国交開始に先立って上程された治安維持法がさしたる反対運動もなく成立した要因のなかに、このキャンペーンで植えつけられた対ソ悪感情が横たわっていたことを看過すべきでない、とする<小林幸男の指摘(『日ソ政治外交史-ロシア革命と治安維持法』(有斐閣、1985年、p.234))>・・・は正当である。」と総括してい」ます。(『シベリア出兵:革命と干渉1917?1922』 570?572頁)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%99%E3%83%AA%E3%82%A2%E5%87%BA%E5%85%B5 
 日露協約によって、日本人の間で一旦潜在化していた横井小楠コンセンサスが、こうして、共産主義ソ連に対する悪感情を通じて従前よりも一層強固な形で顕在化した、というわけです。
 余り指摘されていないことですが、ソ連が日露協約を破棄したというのに、シベリア出兵までした日本が、日露協約での勢力圏にとらわれていたためか、外蒙古に対する軍事干渉を行わず、その結果、外蒙古がソ連の勢力下に入ることを妨げることができなかったことが悔やまれます。
 1929年7月には、ソ連軍が満州に侵攻して中華民国軍を撃破し(中東路事件)、12月にはハバロフスク議定書が締結されるなど、ソ連は内満州における影響力を強めます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%80%E5%B7%9E%E4%BA%8B%E5%A4%89
 こうして、ロシア(ソ連)ないし共産主義に対する安全保障上の要衝としての内満州(以後「満州」と言う)の重要性が高まり、満州は日本の生命線と見なされるようになります。
 このような背景の下、1920年代後半から帝国陸軍の内部より、満洲全土を中華民国(中国国民党政権)から切り離して日本の影響下に置くことを企図する主張が現れるようになるのです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%80%E5%B7%9E%E5%9B%BD
 そして1931年、関東軍高級参謀板垣征四郎大佐と関東軍作戦参謀石原莞爾中佐が首謀して下克上的に柳条湖事件(Mukden Incident)が起こされ、これが彼等の計画通り満洲事変と発展し、日本の保護国である満州国が成立するのです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%80%E5%B7%9E%E4%BA%8B%E5%A4%89
 満洲事変が起きると、当時の若槻禮次郎内閣の不拡大方針をよそに、日本の国民世論は、これを強く支持します。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%80%E5%B7%9E%E5%9B%BD 前掲
 他方、満州の国民党軍は抵抗らしい抵抗をしませんでした。
 それには、中華民国政府(蒋介石政権)が、共産党との闘争を優先させていたため、満州の張学良(Zhang Xueliang)に対日抵抗をしないように示唆したことが与っています。
http://en.wikipedia.org/wiki/Mukden_Incident
 このように、日本による満州の保護国化は、事実上自由民主主義国化していた当時の日本の国民の圧倒的支持を背景に、中国国民党政権の足下を見透かした絶妙のタイミングで行われたことが分かります。
 
 米国のスティムソン国務長官は、1932年(昭和7年)1月、日本の満洲侵攻による中華民国の領土・行政の侵害とパリ不戦条約に違反する一切の取り決めを認めない、と表明しました(いわゆるスティムソン・ドクトリン)し、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%80%E5%B7%9E%E4%BA%8B%E5%A4%89 前掲
日本は1933年に国際連盟からの脱退を余儀なくされますが、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E9%80%A3%E7%9B%9F
1935年に満州国が東清鉄道北部をソ連から購入した
http://en.wikipedia.org/wiki/Manchukuo
ことに象徴されるように、ソ連の影響力は満州から失われ、しかもソ連は満州国を事実上承認した形(注3)になったのです。
 (注3)英語ウィキペディアは、ソ連が1941年3月の日ソ不可侵条約締結時に出された声明書で「満洲帝国ノ領土ノ保全及不可侵」を尊重することを確約したことから、ソ連が満州国を承認したと記しているが、日本語ウィキペディアは、この時点でようやくソ連が満州国を事実上承認したとし、その例証としてソ連が対日参戦するにあたり、日本に対しては宣戦布告したが満州国に対しては何の外交的通告も行われなかったことをあげている。
http://en.wikipedia.org/wiki/Manchukuo 前掲 
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%80%E5%B7%9E%E5%9B%BD 前掲
 私は、英語ウィキペディアの方の肩を持ちたい。
(続く)