太田述正コラム#4356(2010.11.4)
<映画評論15:戦場のピアニスト(その3)>(2010.12.4公開)
 (4)ロマン・ポランスキーという人物
 ロマン・ポランスキー(Roman Polanski。1933年~)は、ロシア生まれのユダヤ人の父親とカトリックの母親の下にパリに生まれますが、1936年に両親とともにポーランドに移住します。
 戦争中、父親はMauthausen-Gusen強制収容所に入れられますが、生還を果たすも、アウシュヴィッツ強制収容所に入れられた母親はそこで亡くなります。
 ポランスキー自身は、クラクフのゲットーから1943年に逃亡し、ポーランド人の複数の家族に匿われて生き延びます。
 彼の最初の結婚は、1959年であり、その相手は彼の映画で主演したポーランド人女優でしたが、1961年に離婚します。
 1968年には、やはり彼の映画に出演した米国人女優のシャロン・テート(Sharon Tate)と再婚しますが、彼女は、ポランスキーとの間の子供を身籠もっている身でチャールス・マンソン(Charles Manson)らによって翌1969年に惨殺されます。
 1976年には、15才だったドイツ人女優のナターシャ・キンスキー(Nastassja Kinski)と愛人関係になり、それが1979年まで続きます。
 1989年には、フランス人の元ファッションモデルで女優兼歌手と三度目の結婚をし、彼女との間で女と男の子をもうけ、現在に至っています。
 ポランスキーと彼の子供達はポーランド語で会話をしています。
 ここまでなら、彼は、女性遍歴の多い人物、というだけのことです。
 しかし、1977年、つまりはキンスキーと愛人関係にあった頃、ポランスキーは、米国で、13才の女の子にシャンペンと睡眠導入剤を飲ませた上で、いやがるこの子に性交を含むありとあらゆる淫行を行い、大陪審によって起訴されるも、米国から逃亡し、現在に至っていることは、ご存じだと思います。(D)
 結局、ポランスキーはまだ裁かれていないわけですが、彼は、ほぼ間違いなくこのような犯行を行ったと思われます。
 確かに、ポランスキーはホロコースト体験、そしてテートの悲劇的死、と大変なトラウマとなっても不思議ではないところの、他者によって自分や自分の近親者が殺害されるという経験を二度もさせられています。
 しかし、だからこそ、抵抗できぬ弱者たる他者に自分が危害を加えるようなことだけは絶対避けるべきところ、ポランスキーは取り返しの付かない悪行に手を染めてしまった上、卑怯にも裁きの場を回避して逃げ回っている、と強く非難されてしかるべきでしょう。 フランスの戯曲家で政治活動家のジャン・ジュネ(Jean Genet。1910~86年
http://en.wikipedia.org/wiki/Jean_Genet
)は犯罪を繰り返してあわや終身刑を科されかけた人物ですが、その犯行とはこそ泥、男娼等であり、ポランスキーの犯行の方がはるかに悪質です。
3 映画の評価
 シュピルマンは、戦前、戦中、戦後を通じて、ポーランドのユダヤ人の中では最も恵まれていた一握りのうちの一人であり続けました。
 この間、戦前と戦後はポーランド人から、そして戦中は主としてドイツ人から、ユダヤ人は死を含む迫害を受け続けました。
 ポーランドのユダヤ人の数が、1939年から89年までの50年間に350分の1ないし700分の1に減ったことが、その累積的迫害の凄まじさを物語っています。
 これは、前述したように、シュピルマンの普遍的能力が傑出しており、ユダヤ人、非ユダヤ人双方から敬意を抱かれていたからこそですが、彼の抜け目なさや精神的・肉体的たくましさのたまものでもある、と考えられます。
 しかし、映画で描かれるシュピルマンは、どこにでもいるプロ・ピアニストであるところの、トロくてひ弱な人物です。
 まず、これでは、どうしてユダヤ人もポーランド人も、はてはドイツ人までもが彼に救いの手を差し伸べたのか説得力が乏しく、私自身、映画を見ていて首をひねりました。
 (戦中、シュピルマンは立派な大人であり、ポランスキーのような小学生の可愛い盛りではありませんでした。)
 たまたまシュピルマンが酔狂なユダヤ人、ポーランド人、とりわけドイツ人とばかり関わりを持ったということなんだな、と自分を納得させた次第です。
 次に、それにしても、よくもまああんなにトロくてひ弱な人物が生き残れたものだ、と首をひねりました。
 これについては、シュピルマンは、ツキに恐ろしく恵まれていたということなんだろうな、と自分に言い聞かせましたね。
 結局、私が実際のシュピルマンについて知った時、ようやく全部の疑問が氷解しました。
 より根本的な問題は、ポランスキーが、シュピルマンの戦中だけを切り取った映画をつくったことです。
 シュピルマンの体験記は戦中を対象としたものであったところ、それ以外にシュピルマンは自伝を書いていなかったわけですし、いずれにせよ、彼の人生の中で最もドラマティックなのは戦中です。
 ポランスキーが、自分自身の戦中体験を、シュピルマンの体験と重ね合わせ、シュピルマンを通じて描きたかった、ということも当然あるでしょう。
 それはそうなのですが、(話が完結した形にならないため、戦前や戦後もほんのちょっとは映画に出てきますが、)戦前、戦後をまともに描くと、ポーランド人によるユダヤ人迫害に触れざるを得ないところ、ポランスキーにしてみれば、それは絶対に避けたかったに相違ありません。
 一つは、彼自身が、その善意のおかげで戦中を生き延びることができたことに対してポーランド人にいささかなりとも感謝の念を抱いているであろうため、もう一つは、恐らくより大きな理由であると思いますが、彼が現在米国による国際手配の対象となっているスネに傷のある存在であり、活動の拠点としている(彼の出生地であるとともに現在の奥さんの国でもある)フランスと、自分の古里であ(り自分の第一言語の国でもあ)るポーランドとが彼の心の拠り所になっているため、ポーランド人のご機嫌を損ねるようなことはしたくない、ということでしょう。
 しかし、ポランスキーによる以上のようなメーキングや配慮の結果、この映画は、悪玉であるナチスドイツと善玉であるユダヤ人・ポーランド人・ドイツ人とがせめぎあう、超一級品の、しかし平板な、(珠玉の音楽を刺身のツマとするところの)お涙頂戴のメロドラマ(soap)として提供されることとなり、数々の賞を総なめするのです。
 いささか厳しすぎるかもしれませんが、この映画にパルムドールやアカデミー監督賞・脚本賞等を授与した審査員達は、生来的犯罪者とおぼしき人物に、その程度を見透かされ、まんまとしてやられた、といったところでしょうね。
(完)