太田述正コラム#4358(2010.11.5)
<映画評論16:スミス都へ行く/エビータ(その1)>(2010.12.5公開)
1 始めに
 何の関係もなさそうな2つの映画を一緒にして評論の対象にするのはどうしてか、と皆さん、恐らく疑問に思われることでしょう。
 それには二つ理由があります。
 第一に、両方一緒に、有料読者のTAさんが、ご自身で選び、そのDVDを私に貸してくれたからです。
 そのTAさんは、コラム#4351で記したように、私は、それぞれの映画に私へのメッセージを込めて送ってくれた、と受け止めています。
 しかし、残念ながら、『スミス都へ行く(Mr. Smith Goes To Washington)』<(1939年)>
A:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%9F%E3%82%B9%E9%83%BD%E3%81%B8%E8%A1%8C%E3%81%8F
(11月4日アクセス。以下同じ)
B:http://en.wikipedia.org/wiki/Mr._Smith_Goes_to_Washington
についてはともかく、後者の『エビータ(EVITA)』(1996年)
a:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%93%E3%83%BC%E3%82%BF_(%E6%98%A0%E7%94%BB)
(11月5日アクセス。以下同じ)
b:http://en.wikipedia.org/wiki/Evita_(film)
c:http://en.wikipedia.org/wiki/Evita_(musical)
d:http://en.wikipedia.org/wiki/Eva_Per%C3%B3n
については、コラム#4353で仄めかしたように、私がこの映画をTAさんからの自分に対するいかなるメッセージと考えたかを、1ヶ月後の時点では、まだ無料読者に公開するわけにはいきません。
 よって、それとの並びで、前者の『スミス都へ行く』の方についても、私がそれをいかなるメッセージと受け止めたかは書かないことにしました。
 (もっとも、こちらの方は、以下をお読みになれば容易に分かるはずですが・・。)
 そんなこと、お前と有料読者(の一部)にしか分からない理由じゃないかって?
 おっしゃるとおりです。
 そこで第二の理由をあげましょう。
 この二つの映画の時代背景が極めて似通っていることです。
 前者は脚本が1938年にできあがっていますし、後者は、エヴァ・ペロン(エビータ)の幼少時代もちょっと出てくるものの、彼女が、夫となるホアン・ペロンと出会う1944年から亡くなる52年までを主として扱っているから、時代背景が近接している、とまず言えそうでしょう。
 それだけではありません。
 この時代は、自由民主主義と(私の言うところの)民主主義独裁との熱戦を含むせめぎあいが最高潮に達した時代です。
 すなわち、自由民主主義圏とファシズムとの最初にして(今のところ)最後の熱戦(英米対独伊、及び日本対中国国民党)、そして、(シベリア出兵と第二次ベトナム戦争を除く)共産主義とのすべての熱戦(日本対ソ連(計3回)、日本対中共軍及び仏米対北ベトナム(第一次ベトナム戦争)、英国等対マレー共産ゲリラ(~89年
http://en.wikipedia.org/wiki/Malayan_Communist_Party
)、米英等対北朝鮮/中共(朝鮮戦争))がこの時代に行われました。
 このような時代背景が、この2本の映画には色濃く反映しているのです。
 そういうわけで、かかる観点から、この2本の映画について、太田流ストーリー評論を行ってみようと思い立った、ということです。
2 『スミス都へ行く』
 この映画については、英語ですが、Bに詳細な粗筋が載っている・・脚本が全文掲載されているサイトも複数ある・・ので、できればBを読んでいただきたいのですが、これは、自由民主主義(的)国家においては、「<議員達の腐敗と戦うために主人公>が行った議事妨害(filibuster)と下院議長による彼に対する暗黙の激励は、どちらも、監督の抱く、個人が<政治的に>大きなことをなしとげうる(make difference)との信念を象徴している」(B)映画です。
 私にとって面白かったのは、米国民の間で、議会・・この映画の場合は上院・・の議員は、選挙区の利益、更に端的に言えば、選挙区の特定の権益を代弁する存在であるのに対し、行政府は米国全体の利益を代表する存在である、という認識が、少なくとも当時、一般的であったことが推察できることです。
 というのは、全議員中、善玉は主人公だけなのに対し、米副大統領が兼務するところの上院議長は善玉として描かれているからです。
 これが議員達の不興を呼び、これは米国政府の腐敗を描いている反米かつ親共映画である、と批判されました。
 また、(後の大統領、ジョン・F・ケネディの父親である)当時のジョセフ・ケネディ(Joseph P. Kennedy)駐英米国大使は、この映画の監督のフランク・キャプラ(Frank Capra)と配給会社であるコロンビアの社長に対して書簡を送り、この映画が「米国の欧州における威信(prestage)」を損なうことを恐れるとし、この映画を欧州で上映しないように促しました。
 しかし、米国内での映画評はおおむねこの映画に好意的であり、結局、この映画は世界に配信されました。
 この映画の上映が禁止されたのが、ナチスドイツ、ファシスト国家のイタリア、共産主義国家のソ連、及びフランコ(ファシスト)のスペインの4カ国であったことは、これが自由民主主義礼賛映画であったことを示すものです。
 1942年にはドイツによって占領されていたフランスで全ての米国映画が上映禁止となりましたが、この映画は、禁止直前に少なくない映画館であえて上映されています。
 (以上、Bによる。)
 ここで重要なのは、この映画が、米国で封切られてからほぼ2年後の1941年10月9日から日本で上映されていることです。(A)
 これは、対米開戦のちょうど2ヶ月前ですが、(米国以外では、上出の4カ国以外でも、「過激」な部分をカットしたり字幕で表現を変えたりした国が少なくなかったようですから、日本でもそういうことはあったかもしれませんが、)この点からも、当時の日本が自由民主主義(的)国家であったことは明らかである、と言えそうです。
(続く)