太田述正コラム#4340(2010.10.27)
<ガリレオ(その1)>(2011.2.14公開)
1 始めに
 ガリレオ・ガリレイ(Galileo Galilei。1564~1642年。イタリアの物理学者、天文学者、哲学者)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AC%E3%83%AA%E3%83%AC%E3%82%AA%E3%83%BB%E3%82%AC%E3%83%AA%E3%83%AC%E3%82%A4
の伝記が、それぞれ米国と英国・・2人の著者の国籍とは逆・・で出版されました。
 デーヴィッド・ウートン(David Wootton)の ‘Galileo: Watcher of the Skies’ と、ジョン・ヘイルブロン(John Heilbron)の ‘Galileo’ です。
 ガリレオについて考えることは、カトリシズムと欧州科学、すなわち欧州文明について考えることであることから、さっそく両著の書評類を用いて、改めて欧州文明とは何かを確認してみようと思い立ちました。
A:http://www.ft.com/cms/s/2/47d74a42-d7e1-11df-b044-00144feabdc0.html
(10月16日アクセス。両著の書評(以下同じ))
B:http://news.scotsman.com/arts/Book-Reviews-Galileo-Watcher-of.6583751.jp
(10月26日アクセス(以下同じ))
C:http://www.telegraph.co.uk/culture/books/8046404/Galileo-by-David-Wootton-review.html
D:http://www.literaryreview.co.uk/brotton_10_10.html
E:http://www.standpointmag.co.uk/node/3414/full
F:http://www.popularscience.co.uk/reviews/rev572.htm
(ウートンの本だけの書評)
G:http://newhumanist.org.uk/2384/stargazer
(著者による解説)
 なお、ウートンは、英国人たる英ヨーク大学歴史学教授であり、
http://www.guardian.co.uk/education/2008/apr/29/academicexperts.highereducation
ヘイルブロンは、米国人たる米カリフォルニア大学バークレー校の歴史学教授兼英オックスフォード大学シニア・リサーチ・フェローです。
http://en.wikipedia.org/wiki/John_L._Heilbron
 両者とも科学史が専門ですが、ウートンは生粋の歴史学者であるのに対し、ヘイルブロンは物理学出身です。(B)
2 ガリレオ
 (1)序
 「・・・ウートンは、ガリレオは最初の近代科学者であって、「ガリレオの大志は新しいアルキメデス(Archimedes<。BC287?~212?年。シチリア島のシラクサに生まれたギリシャ人。数学者として最も知られているが、物理学者・エンジニア・発明家・天文学者でもあった
http://en.wikipedia.org/wiki/Archimedes (太田)
>)の一人になることだったが、ほとんど偶然、自然について学ぶ新しい方法である実験的手法に遭遇し、その結果、我々が現在科学と呼ぶものを発明した。」<(注1)>ことを思い起こさせてくれる。・・・」(A)
 (注1)一般に、ガリレオは、「フランシス・ベーコンとともに科学的手法の開拓者」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AC%E3%83%AA%E3%83%AC%E3%82%AA%E3%83%BB%E3%82%AC%E3%83%AA%E3%83%AC%E3%82%A4 上掲
とされている。(太田)
 「・・・<ただし、>ウートンは、ガリレオを数学者どころか、近代的な意味での科学者と見ることさえ時代錯誤的であるとする。
 ・・・ウートンは、明示的ないし黙示的に残存しているあらゆる証言に影を落としているところの、異端審問官による影響からして、ガリレオについて彼が生きている間に書かれた事実上全てのものは、懐疑的に読まれなければならない、と主張しつつ、断片的、不確実、かつ究極的にはアクセス不能であるという、過去というものの持つ属性を強調する。・・・」(D)
 (2)ガリレオという人物
 「・・・ガリレオは、1564年にフィレンツェ<の位置していたトスカーナ大公国>のピサ(Pisa)に生まれ、僧侶職や医師に一時的な関心を示した後、数学にのめり込み、まずピサ大学で、次いでパドヴァ(Padua)大学で教鞭を執った。・・・」(D)
 「・・・ガリレオは一度も結婚しなかったが、・・・ヴェネティア人の情婦がいた。
 ヘイルブロンは、彼女が売春婦か、せいぜい「誠実なる高級売春婦(honest courtesan)」(モンテーニュが「包括的業務(the entire business)」と呼んだものと同じくらいの代金を会話だけでも請求したところの、より高い階級<の売春婦>)であったのではないかと想像をめぐらす。
 はっきりしているのは、ガリレオが1610年にフィレンツェに引っ越した時に、<彼女>を伴わなかったことだ。
 彼の娘達は、ある修道院に入れられた。
 娘の一人の、聖人のような・・・は、後年、ガリレオの最大の心情面での支えとなった。・・・」(B)
 「・・・ヘイルブロンは、彼の本の最初の方の各章において見事に、ガリレオの(父親から受け継いだ)音楽的能力と自身によるダンテ(Dante)の詩についての批判的考察からして、彼が幾何学に負けず劣らず芸術においても楕円や曖昧さを許すことができなかったことが彼の運動と天文学についての初期の仕事に影響を与えた、と主張する。・・・
 ウートンは、アーサー・ケストラー<(コラム#3832、3934、3836、3953)>が、1959年の本、『夢遊病者達(The Sleepwalkers)』の中で、ガリレオは自分の科学的業績を大げさに話したために自分自身の失墜を招いたと主張したのは正しかったとする。
 ウートンの本は、三つの中心的議論から成っている。
 <第一に、>ガリレオは、多くの人々が主張しているような偉大な実験科学者などではなく、不承不承の経験論者であったということだ。
→要するに、ウートンは、ガリレオは近代科学の父などではない、と言っているわけです。(太田)
 <第二に、>彼のコペルニクス主義信条は、1597年に遡るのであって、一般に信じられているところよりもはるかに以前からのものであることだ。
 <第三に、>ここは一番異論が出ると考えられるウートンの議論だろうが、ガリレオは実は非宗教的な人物であったということだ。ただし、その証拠は薄弱なので、侃々諤々の論議が起きることだろう。・・・」(D)
→近代イタリアは、(近代ドイツより単純であるところの、)カトリシズムと無神論とのせめぎあいの世界であったということでしょう。私は、ガリレオが無神論者であったというのは、大いにありうる話だと思いますね。(太田)
(続く)