太田述正コラム#4342(2010.10.28)
<ガリレオ(その2)>(2011.2.15公開)
 「・・・デーヴィッド・ウートンの<本>においては、ガリレオは、<ジョン・ヘイルブロンの本に比べて>よりはるかに急進的人物として描かれている。
 ここ数世紀の学者達の通説に反し、ウートンは、ガリレオがカトリックではなく、キリスト教徒ですらなく、神は宇宙を創造し、爾来宇宙を放置してきたかもしれないと信じる理神論者(deist)の類であると主張する。・・・
 <ただし、そのためには、>ウートンは、それに反するすべての証拠を効果的に包み隠す必要がある。
 いずれにせよ、ガリレオは、さして信心深く(devout)なかったようには見える。・・・
 ガリレオは哲学者であって科学者ではなかった。
 彼は、問題を第一原理から<演繹的に>解こうとしたし、実験は自分の解答を証明するためにのみ用いた。
 これとは対照的に、近代科学は、実験が、それを正しいことを証明することはできないけれども誤りであることを証明することはできるところの仮説を取り扱う。
 ガリレオによる<自然の>観察が、宇宙に異なった秩序を与えたことは確かだ。
 しかし、彼は人類の頭の中から神を追い出すことの手助けもした<と言える>のだろうか。
 証拠はそうでないことを示唆している。
 ヨハネス・ケプラー(Johannes Kepler<1571~1630年。ドイツの数学者・天文学者・占星術者
http://en.wikipedia.org/wiki/Johannes_Kepler (太田)
>)の、楕円形の軌道に基づいたびっくりするほど正確な天文表(Astronomical tables) <(注2)>は、地球は動くこと、かつまた、科学は聖なる務めであること、を効果的に証明した。
 (注2)「天文表とは、数年分の『理科年表』の「暦部」と「天文部」を合わせたような天文データ・ブックで、おもに諸惑星の位置推算表からなり、主として占星術における出生天宮図の作成のために利用された。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%83%89%E3%83%AB%E3%83%95%E8%A1%A8 (太田)
 
 そのケプラーの書き殴ったメモには<ケプラーの頭の中から>自然に出てきた祈祷が含まれていたし、彼は、自分の業績について常に神に感謝を捧げた。
 ロバート・ボイル(Robert Boyle<。1627~91年。アイルランドのイギリス貴族の息子。自然哲学者・化学者・物理学者・発明家・神学者。ボイルの法則で有名
http://en.wikipedia.org/wiki/Robert_Boyle (太田)
>)とアイザック・ニュートン(Isaac Newton<。1643~1727年。イギリスの物理学者・数学者・天文学者・自然哲学者・錬金術師・神学者
http://en.wikipedia.org/wiki/Isaac_Newton (太田)
>)は、どちらも科学に比して宗教の方により関心があった。
 そして、両者とも、信仰と理性との間に矛盾はないことを確信していた。・・・」(E)
 「・・・1633年に至るまでにガリレオが書いて出版したものは、すべて教会の検閲官の承認を得たものだった。
 また、彼の書いたすべての手紙は、とりわけ1633年より後のものは、異端審問官に読まれることを承知の上で書かれたものだった。
 全般的に注目すべきは、彼が何を言ったかではなく、何を言わなかったかだ。
 彼が書いた全てのものの中で、彼は、イエス、罪、購い、死んだ後の生活に言及したことが一度もない。
 <なお、>彼は、ルクレティウス(<Titus >Lucretius< Carus。BC99~BC55年。古代ローマの詩人・哲学者
http://en.wikipedia.org/wiki/Lucretius (太田)
>)<の『事物の本性について(On the Nature of Things(Universe))』(注3)>を2冊持っていたが、ルクレティウスに自身の書き物の中で言及したことはない。
 (注3)「エピクロスの宇宙論を詩の形式で解説<し、>・・・唯物論的自然哲学と無神論を説い<ている>。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%82%AF%E3%83%AC%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%A6%E3%82%B9 (太田)
 そして、我々は、これまで誰もが看過してきた、決定的な一片の証拠を持っている。
 1639年にガリレオの長年の緊密な協力者であったベネディクト派の僧侶でローマ大学の数学教授であったベネデット・カステリ(Benedetto Castelli<。1578~1643年。イタリアの数学者でベネディクト会(Order of Saint Benedict)会員。ガリレオの弟子にして友人
http://en.wikipedia.org/wiki/Benedetto_Castelli
http://ejje.weblio.jp/content/Order+of+Saint+Benedict (太田)
>)という男が、ガリレオに、今や老いて目が見えなくなっていたガリレオがついにキリスト教を信じるようになったという素晴らしい知らせに接してこれを喜ぶ手紙を送っている。
 カステリの手紙は、その生涯最後の3年間におけるガリレオの信条について幾ばくかの疑問を我々に残すかもしれないが、結果として疑いの余地のないことは、カステリがその時点まで35年間にわたって知っていたガリレオが、キリスト教徒であったことがなかったという点だ。・・・」(G)
 (3)ガリレオの研究業績
 「・・・1532年にコペルニクス(<Nicolaus >Copernicus<。1473~1543年。ポーランド=リトアニア同君連合王国のポーランド王領プロイセンのトルン(Thorn)生まれのドイツ系ポーランド人。天文学者・僧侶
http://en.wikipedia.org/wiki/Nicolaus_Copernicus 
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%82%B3%E3%83%A9%E3%82%A6%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%9A%E3%83%AB%E3%83%8B%E3%82%AF%E3%82%B9(太田)
>)の太陽を中心とする太陽系<という説>が法王庁で観衆に講義されたということはほとんど知られていない。
 その後に到来する嵐のことを考えると、当時の法王のレオ10世(Leo X<。1475~1521年。法王:1513~21年。フィレンツェ生まれでフィレンツェ共和国の支配者ロレンツォ・デ・メディチ(Lorenzo de’ Medici)の次男。僧侶出身でない最後の法王
http://en.wikipedia.org/wiki/Pope_Leo_X (太田)
>)が、その講義の後、その本を完成すべく頑張っていた、このポーランド人僧侶<たるコペルニクス>に対して激励の書簡を送ったなどということは、ほとんど信じがたいことだ。
 彼の『天体の回転について(On the Revolutions of the Heavenly Spheres)』 が1543年に出版された時、コペルニクスはその最初に刷り上がった本を死の数時間前に手にしたという。
 彼の太陽中心説が仮説として提示されている限りにおいては、法王庁はコペルニクス主義に関心を持たなかった。
 ところが、一人の男がそのすべてを変えてしまった。
 1564年2月に生まれたガリレオ・ガリレイは、最初医者になろうとして、父親の不興を買ったところの数学者志望に切り替えた。
 伝説によれば、彼はピサの斜塔からボールを落として落下体の運動を探査し、すべての物体は同じ速度で落下することを発見し、アリストテレス以来誰もが信じてきたことを論駁した、とされているが、これは疑わしい。
 1609年に、ガリレオは、オランダの眼鏡職人が望遠鏡を発明したことを知り、自分でそれをすぐにつくった。
 数ヶ月以内に、彼はそれをオモチャから科学的発見のための道具へと変貌させ、銀河は空を横切る筋ではなくて多数の星であること、そして、月は山や谷を持っていることを見出したし、金星の満ち欠けや太陽黒点も観察した。
 「ガリレオにとっては、百聞は一見にしかずだった」と歴史学者のデーヴィッド・ウートンは言う。
 しかし、このよく調査された知的伝記の中で、彼は、ガリレオはその木星の何個もの月の発見が全ての天体が地球の周りを回っているわけではないことを証明するずっと以前から、コペルニクス主義者であったと説得力ある主張を行っている。
 1610年3月、ガリレオは彼の諸発見を、適切なタイトルがつけられたところの『星界の報告(The Starry Messenger)』の中に収めて出版した。
 それは、1週間以内に全部で550部も売れ、まもなく46歳のガリレオは、欧州で最も名高い自然哲学者となった。・・・」(C)
 「・・・初期には力学と運動に手を出し、彼の評判はすぐに確立されたが、『星界の報告』に収録された彼の望遠鏡天文学、及びコペルニクスの太陽中心説の論駁しがたい明らかな経験論的証明は、ガリレオの科学的評判とその個人的運命の両方を決定した。
 ガリレオの、後の『天文対話(Dialogue <Concerning the Two Chief World Systems> )』(1632年)は、彼のコペルニクス主義信条を再確認するもののように見え、ついに異端審問所をして彼を注視せしめるに至らしめた。
 また、彼の『新科学対話(Discourses <and Mathematical Demonstrations Relating to Two New Sciences>)』(1638年)は、「新科学」の要約を提供するものだった。・・・」(D)
 「・・・1610年3月13日、パドヴァ大学の余り知られていない教授・・・ガリレオ・ガリレイ・・・が発明されたばかりの望遠鏡で行った天体の観察を内容とする短いパンフレット・・・『星界の報告』を出版した。
 その同じ日に、駐ヴェネツィア・イギリス大使は、外交行李にそれを一部入れ、その著者は「非常に有名になるかひどい笑い者になるかという危険を」冒しているという一文を添え<て本国に送っ>た。・・・」(E)
 
 「・・・この前後の頃には、「事実(fact)」という概念は真の意味では存在していなかったのだが、この言葉をガリレオがはっきり使用した。(同様、彼が「科学」した点についても同じことが言える。)・・・」(F)
(続く)