太田述正コラム#4486(2011.1.8)
<日露戦争以後の日本外交(その2)>(2011.4.4公開)
 「ルーズベルト・・・は、・・・義和団事件後の<1900>年8月28日、・・・友人であるシュテルンブルク(当時、駐米独国大使館勤務)に対して「私は日本が韓国を支配するのを見たい。日本はロシアに対する制止役になるであろう。日本がこれまで行って来たところから、日本はそうするに値する。」と述べ・・・ていた。」(116)
 「ルーズベルトは、日本に対して<も>既に<1904>年6月7日(6日)に<ハーバード大時代からの友人で、日本政府から米国に派遣されていた>金子堅太郎<(コラム#1628、3522、4466)>・・・に向かって「<日露戦争の>講話談判のときになれば朝鮮はむろん日本の勢力範囲に入るべきものと僕は思っている。」と・・・発言をしていたのである。・・・
 金子<は>・・・「これはじつに意外であった。・・・おそらく日本の政治家でも要路の人でも<1904>年の6月7日に、そういう考を持っていた人はあるまいと思う。・・・」<と記している。>」(119、125)
→セオドア・ローズベルトが専制国家ロシアの極東での南下に強い警戒心を抱いていたことは、後述するように事実ですが、彼が、こんなに早くから、日本が韓国を支配することを期待し、日本にそれを促した裏には下心があったのです。(太田)
 「<1905>年2月に入ってルーズベルトの「日本は旅順と韓国を領有しなければならない。・・・」という見解が、・・・桂首相に<米民間人を通じて伝えられていた。>」(119)
 「<1905年5>月下旬ルーズベルトはデュランド駐米英国大使<に>・・・<日露戦争の>講和条件について、「・・・日本<は>・・・旅順及び韓国に対する卓絶した影響力を保持することを許されるべきである。」と述べ<た。>」(118)
→ここに至って、ローズベルトは、韓国と旅順の領有というところまで踏み込んだ形で日本の背中を押したわけです。(太田)
 「5月31日には、タフト陸軍長官<(後に米大統領)>に宛てて「・・・もし我々が最高の能力にある部隊を持つ適当な規模の海軍を設置、維持出来ないのであれば、またフィリピンに於いて強大で適正な海軍基地を設置するつもりがないのであれば、我々はフィリピン諸島を放棄(give up)した方がよほど良い。」と言明していた・・・。」(120)
 「<しかし、その一方で、ルーズベルトは、>6月5日、上院議員ロッジ(H.C. Lodge)に宛てて、日本のことを「この恐るべき新強国–嫉妬深く、敏感で、好戦的な国家<は>、もし挑発され、制海権を握れば、すぐにでもフィリピンとハワイを奪い取ることが出来る」国家と述べて<いた。>」(120)
 「タフトは、<1905>年3月25日親友・・・に送った書簡の中で、・・・「日本は韓国と遼東半島に植民するのに精一杯であり、その南限を台湾のみに置くことで全く満足するであろう。」と述べていた。」(120~121)
→種明かしをすれば、ローズベルトは、日本の関心を大陸経営に集中させることで、間違っても米国が領有するフィリピン等にその目を向けさせないよう腐心していた、ということなのです。(太田)
 「7月27日、<陸軍長官のタフトと桂首相が・・・会談<を行った。この秘密会談は、>1924年10月・・・初めてその内容が公開されることになった・・・。この桂・タフト会談に於いて、桂は日本がフィリピンに対して何ら侵略的意図を抱いておらず、アメリカによる統治に同意を表明する一方、タフトは桂の言う様に・・・日本の韓国に対する宗主権(souzerainty)を認めたのである。・・・7月31日に、ルーズベルトがタフトに宛てて「・・・貴官が述べた言葉を私が承認することを桂に伝えよ。」と訓令したことで、タフトの発言はルーズベルト政権の政策表明と理解されたのである。」(121~122)
 「こうして・・・ルーズベルトは彼の政権担当期間に於いてアメリカが・・・2週間語に調印された第二回日英同盟の・・・「秘密の一員」(a secret member)・・・「調印せざる一員」(an unsigned member)として行動するという個人的な誓約を与えたのである。」(122)
→そのために、ローズベルトは、米議会に諮らず事実上の条約を外国(日本)と締結するという違憲行為まで行って日本を懐柔しようとした、ということです。(太田)
 「既に日露戦争以前から、日本指導層の内部では、たとえ日本が一度ロシア軍を破り得るとしてもロシアは必ず復讐戦を企てるに違いないと予想し、その対策を練っていた。その解決策の1つが、満州国国際管理案であった。・・・
 ・・・元老伊藤博文は、<1904>年11月12日、ホーラー駐日英国書記官に向って、「永久的な平和が確保される唯一の方法は、清国領土に入る地点から鉄道を国際化することであろう。・・・日本の外国政策に最も重要な目的は、イギリスとの友誼であり、その次がアメリカである。」と述べている。」(128~129)
 「この点について、陸軍の長老である山縣有朋も<1905年8月の意見書を見る限り>ほぼ同じ見解を持って<いた。>」(129)
→日本の指導層が、話がうますぎるのではないか、と内心不安で一杯であったのは当然でしょうね。(太田)
(続く)