太田述正コラム#4520(2011.1.25)
<ワシントン体制の崩壊(その10)>(2011.4.19公開)
6 チャールズ E・ニュウ「東アジアにおけるアメリカ外交官」(坂野潤治訳)
 これは、なかなか面白い論文です。当時、ブラウン大学教授で、やはり、恐らくは米国人であるニュウに米国人なるがゆえの限界があることは言うまでもありませんが・・。
 「ジョン・V・A・マクマリーは1935年に次のように回顧している。
 「我国の政府も民間世論も共に、中国問題を東アジア問題の中心に置いたのは、当然かつ正当なことであった。中国を太陽に喩えれば、日本はもちろん、フィリピンでさえ太陽のまわりを廻る衛星にすぎなかった」。」(214)
→これはどういう意味かをこの論文は明らかにしようとしたのです。(太田)
 「1920年代初頭におけるアメリカの外交官たちの対日観は、その対中観ときわだって対照的であった。彼らはこの中国の隣国を疑惑と警戒をもって眺めていた。第一次世界大戦中における日本の中国への侵略は、日本に対するアメリカの敵意を強めさせた。アメリカの外交官の多くは、独立した近代強国としての中国の誕生にとっての最大の脅威は日本であると確信するにいたった。彼らは・・・同時に日本をアジアにおける二流国であるとみなしていた。この二流国は中国資源の搾取によって自らを強化しようとしており、その過程で欧米的理想と制度が中国に浸透するのを妨げようとしており、開かれた中国の門戸を閉じようとしている、とアメリカの外交官たちは思っていた。ワシントン会議においてもマクマリーらのアジア専門家たちは、日本との対決を主張していた。」(215)
→当時の米国の対日観/対支観と英国のそれとの落差がどれほど大きかったかがわかります。
 がっかりさせられることに、マクマレーもまた、当時の米国の外交官の典型的な対日観/対支観を抱いていたわけです。(太田)
 「アメリカの外交官たちの中国への傾倒は、近代社会の緊張から逃れたいという彼らの願望に根差していた。彼らは中国において文明的ではあるが産業化されていない国家を見出した。そこには彼らの美的感覚に訴えるものがあり、また過ぎ去ったアメリカを想い出させるものがあった。」(216)
 「日本は中国に比してこの種の吸引力を欠いていた。19世紀後半には日本の前産業社会がアメリカ人を魅きつけたこともあったが、1920年代の日本は近代化の道をすでにかなり進んでおり、その種の魅力の大部分を失っていたのである。・・・
 アメリカの外交官たち<の抱く>概念としての進歩の肯定と、現実の進歩の結果に対する嫌悪との間の対立が表面に出てきたのである。いわば彼らは、自分たちの将来像から逃れたいと念願していたのである。」(218)
→要するに、当時の米国の外交官は、文化人類学者が未開部族を愛で、文明と接触して無垢でなくなった部族を厭うのと同じ感覚・・傲慢さと言った方が正しいかもしれません・・でもって、支那と日本を見ていた、ということです。(太田)
 「それ故にアメリカの外交官たちは滅多に日本行を希望しなかった。駐日大使を補充することは困難であり、赴任した大使は短期間の滞在の後には喜んで日本を離れた。一般的にいって駐日大使の資質は駐中国大使よりも劣っていた。将来を嘱望されている国務省の東アジア専門家たちが外地勤務につく場合には、彼らは日本ではなく中国に赴任した。」(219)
→かねてより、米国人は、本来的に国際情勢音痴である、と申し上げてきたところですが、外交官ですらこんな有様では、何をかいわんやです。(太田)
 「1917年10月に東京に栄転させられた時、マクマリーは「悲嘆に暮れた」。・・・
 「東京は生活する場所としては北京に及びもつかない。東京は無闇に広いばかりの、くすんだ、色彩に乏しい町で、日本のものと外国のものの混成物である。美しく色彩に富んだものは、公園や奇妙な裏通りに時たま点在するだけである。生活費は北京よりもはるかに高く、召使たちはあまり良くない。・・・
 1929年に中国公使をやめる時に<も、>個人的な条件が非常に悪く、経済的な消耗があまりに大きい東京に移る意思のないことを明らかにしていた。北京以外で彼が赴任を真に望んでいた所はローマであった。」(219~221))
→マクマレーを始めとする当時の米国の外交官は、楽しい任地でいい暮らしをするために国務省に入ったのか、と揶揄したくなりますね。
 こんな姿勢では、任地を真に理解することなど、およそ不可能というものでしょう。(太田)
 「アメリカの政策決定者たちの中国に対する偏愛と期待にもかかわらず、1922年と23年に中国で起った諸事件は、彼らに幻滅のみを残した。内乱が激化するにしたがい北京政府の権力は傾き、相対立する諸勢力の衝突は外国人の生命と財産を危険にさらした。何人かのアメリカ人が匪賊に誘拐され、またある者はアメリカ領事の眼前で射殺された。これらの事件にアメリカの外交官たちは激怒した。・・・
 大部分のアメリカ外交官たちの見解は次のマクマリーの言葉に代表されるようなものであった。すなわち、「我々は中国で今起っている犬の喧嘩に対しては中立である。どの派閥も我々には同」じにみえる。張作霖は「海賊」であり、孫逸仙は「中国のブライアン」であり、段祺瑞は「間抜け」である、と。」(221~222)
→実際、ここからは、例えば、赤露に対する脅威認識や、赤露への距離でもって支那の派閥を評価するといった視点、が生まれる余地はありません。
 『防衛庁再生宣言』以来、私はマクマレーを買いかぶりすぎて来たようです。(太田)
(続く)