太田述正コラム#4594(2011.3.3)
<戦前の日本の外相(その3)>(2011.5.24公開)
4 青木周蔵(1844~1914年。外相:1889~91、1898~1900年)
 「青木<周蔵の>・・・妻・・・は、ドイツの貴族の出身であった。そればかりか、娘のハンナを西欧式に育てた。・・・このような彼が外国の意見に不当に影響されて、誤ったという証拠がある。たとえば、1895年の三国干渉のとき、ベルリンから彼は、ドイツはロシアに加担しないと報告した。さらに彼は、お構いなしに外国人を中に立てて外交を行った。有名な例は、ドイツ人のフィリップ・フォン・シーボルトで、青木は、特別の訓令もないのに、自分の代理としてシーボルトにイギリス外務省を訪れることを許していた。・・・」(46)
→これで、分限免職にならなかったとは、まことに不思議です。(太田)
 「ベルリンで長い年月を過ごした者として、青木のロシアに対する猜疑心は深かった、外務大臣として、彼は、1890年5月15日の長文の意見書で、内閣の同僚に対して、ロシアの朝鮮への南下から生じる危険について警告した。彼の後見人である山県も同じような感情をもっていて、1890年の意見書で、国民にロシアの脅威に警戒の眼を見張るように説いた。このような猜疑心は、ロシアが、1891年、シベリア鉄道の建設に着工したとき、一段と深まった。・・・
 山県内閣(1889~91年)の下で外務大臣になった青木の第一次外務大臣時代を終わらせたのは、偶然にもロシア帝国であった。・・・大津事件<である。>」(46~47)
→そんな青木も、やはり対ロシア安全保障は最重要視していた、ということです。(太田)
 「青木は、狂信的にと言ってもいいほど、朝鮮半島におけるロシアの浸透の兆候に警戒の眼を向けた。彼が希望するところは、日本が満州におけるロシアの地位を認める代わりに、ロシアは日本に朝鮮における自由行動を許すことであった。・・・
 <1900年、>彼は、・・・天皇に直接上奏し・・・朝鮮に兵を送ることが望ましいと強く訴え、そして、ロシアは義和団の乱の結果として南満州の要所に居坐り続けているので、派遣された日本軍は、ロシアとの交戦に備えることになると説明した。・・・
 山県は、青木の行為に・・・激怒した。<そして>・・・9月26日、内閣総辞職を申し出た。・・・
 外務大臣が内閣を崩壊させる例は、日本の歴史では珍しい。・・・<これは、>ある意味で青木の強烈な個性と彼の策略の能力を示している。・・・
 1906年、彼は駐ワシントン大使に任命された。ヨーロッパ外交育ちの外交官として、彼は、移民問題では不慣れな問題にぶつかった。彼は本能的に、これは、日米の協調を保つためには、大問題にしてはいけない第二義的な問題だと感じた。青木と外務大臣の林董との間に一種の確執が生じ、林は、1908年、要するに越権行為ということで、青木を召還した。」(54~59)
→早期に青木を分限免職してなかったからこんなことになるのです。
 ところが、日本政府は、そんな彼を駐米大使にするのですから何をかいわんやです。
 当然のように、彼は問題を引きおこしたわけです。(太田)
 「青木は、彼の後見人の山県の考えに近かった。しかし、山県には軍人らしからぬ、ある種の慎重さと自制心があった。これに対して、青木はしばしば性急、軽率であった。この点ではおそらく、彼の性格の日本人的でない部分、即ちドイツ的なものが深く染み付いた体質が出たのであろう。彼には衝動的で、短気を起こす傾きがあった。彼が在外使臣として越権のかどで二度まで召還の憂き目にあっているのも、決して偶然ではない。もう一つの要因は、我を通そうとして極端に走ろうとする傾向である。たとえば、1900年、彼は、我を通す目的のためには、後見人山県に逆らうことも辞さなかったのである。この傾向と組みあわされていたのが、議会を扱う才能の欠如と政党政治家への侮蔑感であった。青木は、八方美人になりたいという気持ちがあったにもかかわらず、決して政治上手ではなかった。しかし青木は、第一級の政治家とは言えないが、明治の日本における豊かな、そして特異な性格をもった人物であったとは言える。」(60)
→いくら青木が、「留学生、公使として滞独生活は25年に及<んだ>」(ウィキペディア下掲)とはいえ。ニッシュ、ドイツ人を貶める形で引き合いに出したのは、いささか品がないと思います。なお、青木が、議会や政治家への侮蔑意識を持っていた、というのはそのとおりなのでしょう。(太田)
 青木の前半生は次のとおりです。
 「<長州藩士の>養子となって士族となり、・・・<藩校の>明倫館で学んだ後、長崎での医学修行を経て明治元年(1868年)、藩留学生としてドイツ留学。渡独後、医学から政治、経済学に無断転科し問題となったが来独中の山縣有朋に談判して解決させた。・・・1872年・・・、北ドイツ<日本人>留学生総代となり在独留学生の専攻科目決定に介入し物議をかもす。当時の留学生の専攻は軍事、医学に集中しており、青木の真意は日本近代化には、専攻を分散することの必要を説くことだった。・・・
 1873年・・・、外務省入省。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%92%E6%9C%A8%E5%91%A8%E8%94%B5
 青木のように、幅広い経験を積んだ人材を外務省に入省させたのは良いことだと思います。
 しかし、(青年期にはねあがり的行動をとるのはむしろ評価すべきかもしれませんが、)外務省に入ってからの青木の累次のはねあがり的行動を大目に見過ぎて日本政府は何度も煮え湯を飲まされることになります。
 青木をドイツに25年も勤務させたことも併せ考えると、当時の外務省の人事管理は極めて杜撰であった感が否めません。
 とりわけ、青木のように、外国かぶれ(=日本人離れ)で政治家、すなわち世論、への侮蔑意識を持った人物を、外務次官や外相などにしてはいけなかったのです。
 その後、日本の外交官に青木的人物が輩出したところ、青木こそ、まさに日本の外交官・・・その後、東大を中退して外務省に入る純粋培養人間だらけになる・・の劣化の起点となった人物である、と言えるのではないでしょうか。
(続く)