太田述正コラム#0029(2002年4月28日)
<先の大戦>

小泉首相の靖国神社例大祭時の参拝をめぐる論議がかまびすしい昨今です。
(靖国神社は先の大戦の「戦没者」だけを祀っているわけではありませんが、)最大の問題は、先の大戦を日本人としてどう見るかでしょう。
ご参考までに、(結論はストレートには書いていないのですが、)10年以上も前の拙文をご披露することにしました。(陸上自衛隊の下士官クラスである曹の親睦会、曹友会の機関誌「曹友」1991年6月号に掲載された「忠臣蔵・陸曹・曹友会―四十七士に中堅の理想像を見る??」を改題。文中の「陸曹」等の表現は改めた。)

                 忠臣蔵

忠臣蔵を知らない人は日本人ではない・・・と言えるかどうかはさておき、昨(1990)年の暮れから正月にかけて、またもや忠臣蔵ものがおびただしくテレビを通じて放映された。
 皆さんの多くも、その熱心な視聴者であったのではないかと推察する。
 いったいなぜ元禄時代の武家社会の中で生まれた忠臣蔵が、まるっきり時代を異にする現代において、依然としてこれほど人気があるのだろうか。
 (あらかじめ断わっておくが、ここで忠臣蔵というのは、人形浄瑠璃や歌舞伎で上演される仮名手本忠臣蔵を指しているのではなく、史実としての赤穂浪士の仇討事件を指している。)
  第一の説は、忠臣蔵が忠義のドラマだからだというものである。例えば、明治天皇、すなわち明治新政府は、維新のなった直後の明治元年に赤穂浪士達の菩提寺である泉岳寺に勅使を派遣し、「汝(なんじ)良雄等固ク主従ノ義ヲ執リ仇(あだ)ヲ復シテ法ニ死ス。百世ノ下、人ヲシテ感奮興起セシム。朕深ク嘉賞ス・・・」と勅旨を述べさせている。大衆が忠臣蔵を好むのも、同じ理由からだというわけである。
 ところが、よく考えてみると、浪士達の主君の浅野内匠頭(たくみのかみ)が亡くなったのは、幕府が切腹を命じたためであり、浪士達による行動が、喧嘩両成敗(けんかりょうせいばい)の法に違背するこの幕府の措置に不満を抱いたためであったとすれば、これを忠義の発露ととらえることにはいささか無理がある。
 これに代わる第二の説は、忠臣蔵は、私(わたくし)によって公(おおやけ=お上)の非違がただされるドラマだというものである。この説によれば、忠臣蔵がうけるのは、草の根の庶民が抱く反抗精神ないし反権力精神が満たされるからだということになろう。
 三番目の説は、忠臣蔵を典型的な勧善懲悪ドラマととらえるものである。要するに、吉良上野介(こうずけのすけ)という悪玉が浪士達によって滅ぼされることにより、庶民の素朴な正義感が満たされるからこそ人気があるというわけである。
 第四は、忠臣蔵を、あまたある大願成就(たいがんじょうじゅたん)のうち、もっともできのいいものの一つととらえるものである。その内容の是非はともあれ、浪士達が吉良上野介の首級をあげるという大願を抱き、あらゆる 難辛苦(かんなんしんく)に耐えてこの大願を果たすことに成功することに大衆がえもいわれぬカタルシスをおぼえるから忠臣蔵がうけるのだという説である。
 第五の説は、忠臣蔵を、日本における集団行動の教科書ととらえるものである。
 私は、この説に共鳴するところが多いが、この説を少しく敷衍(ふえん)してみたい。
 大石内蔵助を中心とする同志集団が形成されたのは、浅野家のお家とりつぶしが決まり、幕府から赤穂城の明け渡しを要求されたときだった。
 大石は、筆頭家老として、家臣団としての対応ぶりを決定すべき立場にあった。篭城抵抗策こそ頭から排除しつつも、彼の心は一斉殉死という消極的抵抗策と無条件城明け渡し策との間を揺れ動いた。この間、城代家老大野九郎兵衛ら上士の多くは脱落してゆき、残った者には中士、下士が多かった。
 その後も大石の動揺は続く。有名な大石の廓(くるわ)通いは、吉良方に対する巧妙な韜晦(とうかい)策などといったものではなく、大石の不安、焦燥感の現れと見た方が得心がゆく。大石にしてそうなのであるから、生活に困窮した上士を中心に引続き脱落者が続出した。もっとも、その中から、一人として幕府や吉良方に内通した者が出なかったのは、特筆されるべきであろう。
 また、浪士達の多くが江戸で町人に身をやつして吉良屋敷の探索等に努めたことは良く知られているが、米屋や小豆屋に化けてさまになったのは、当然のことながら中・下士の面々だった。
 浪士達は、上野介の首級をあげ、ものの見事に本懐を遂げることになるが、このときの浪士側の負傷者がわずか4名であったのに対し、吉良側は、上野介を入れて17名が死亡し、負傷者は20名以上に及んだという。
 討入後、一人姿を消すのが足軽の寺坂吉右衛門であり、大石の意を含んでの逐電であったとされている。今日、浪士達の行動の詳細を知ることができるのは、生き残った彼の手記に負うところが大きい。
 このように忠臣蔵は、有事において、ある組織集団が形成され、その中堅以下のメンバーが中核となり、苦心惨憺(さんたん)の末、所期の戦略目的を達成するというドラマであり、組織の一員たる日本人は、代々そこから汲めども尽きせぬ教訓を得てきたと考えることもできるのではないか。
 皆さんも、今一度そういう眼で忠臣蔵を見直してみてはいかがか。きっとあるべき組織人像を忠臣蔵のメンバーの中に見いだすことであろう。
 ところで、私は第五説以外は成り立たないと思っているわけではない。特に第四の大願成就説には捨てがたい趣がある。ただし、この説をとる場合、浪士達の大願成就に喝采をおくるのは、日本人個人個人がそれぞれ異なった「大願」を心に抱いているからだとみるのか、日本人の多くが実は共通の「大願」を抱いているからだと見るのか、見解が分かれるところであろう。
 私は、どちらかというと後者をとりたい。第2次世界大戦における敗戦という深刻な体験を通じ、日本国民の大多数が共通の「大願」を抱くにいたり、それが戦後生まれの世代にも引き継がれていると見るわけである。 もし、そうだとすると、忠臣蔵の相変わらずの人気からして、どうやらその「大願」は、未だ成就していないということになりそうである。(完)

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