太田述正コラム#0122(2003.5.30)
<マクナマラの悔恨(その1)>

 1974年6月、25歳だった私は政府から派遣されてスタンフォード大学に留学しました。もう30年近くも前の話です。
英語ならぬフランス語の集中講座を受講したりして大いに羽を伸ばした夏学期が終わり、9月になっていよいよビジネススクールに入校したとき、学部長(Dean)のアージェイ・ミラーがフォードの元社長であり、前副会長だと知ってびっくりしました。ビジネススクールは企業経営について実践的な勉強をするところだということは承知していましたが、学者歴の全くない人物、しかも大企業のトップが大学(院)の学部長になるというのは日本では考えられないことだったからです。
(政治学科大学院志望の日本人政府留学生N氏に触発されて、私は当初の予定を変更し、政治学科大学院にも籍を置くことにしたのですが、政治学科が属するスクール・オブ・ヒューマニティーズ・アンド・サイエンスの学部長の方は名前も含め、全く記憶に残っていません。)
 ビジネススクールの授業が始まると、アラン・エントーベン(http://gobi.stanford.edu/facultybios/bio.asp?ID=40。5月30日アクセス)とヘンリー・ローエン(http://www-hoover.stanford.edu/BIOS/rowen.html。5月30日アクセス)という、ロバート・マクナマラ国防長官時代にそれぞれ国防長官事務局(内局)と連邦予算局(主計局)の幹部職員となり、(「発明」したのは第二次大戦時の米英両軍だがその後民間で発達した)システム分析手法を駆使して国防予算の「科学的」編成に辣腕をふるった著名なお二人が教授でいることを知り、防衛庁に在籍していた私は興味津々、さっそくお二人の授業要項に目を通しました。すると、ローエンの方は安全保障に関わる研究を続けているものの、エントーベンの方は医療問題の専門家になっているのにまたまたびっくり。(一年目は必修科目しかとれないので、二年目にようやくお二人の授業をとりました。)
このように産官学の垣根を越え、専門分野を乗り越えて活躍するまばゆいばかりの米国のエリート達に出会ったところから私の本格的な米国留学生活は始まったのでした。

 実はロバート・マクナマラとアージェイ・ミラーは浅からぬ因縁があります。
 二人ともカリフォルニア州出身であり、同じ1937年にマクナマラはUCバークレーを、ミラーはUCLAを卒業し、マクナマラはハーバード大でMBAを取得してから同大学のビジネススクール助教授となり、ミラーはサンフランシスコ連銀エコノミストとなります。そして第二次大戦中にはどちらも軍隊で活躍し、戦後同じ1946年に二人ともフォード社に入り、マクナマラは1960年に社長に、そしてミラーはマクナマラが1961年に国防長官に任命された後の1963年に社長になったというのですから。(ミラーがフォードの副会長になったのはスタンフォードに招致される一年前の1968年です。)(http://globetrotter.berkeley.edu/McNamara/mcnamarabio.html及びhttp://www.gsb.stanford.edu/history/miller.html。いずれも5月30日アクセス)

 前置きが長くなりました。
そのマクナマラが、今年のカンヌ映画祭に出展されたドキュメンタリー映画「The Fog of War(戦争の霧)」の中でインタビューに答えて、日米戦争とベトナム戦争において彼が犯した過ちを痛恨の思いで回顧しており、そのことが改めて話題を呼んでいます(http://www.guardian.co.uk/Iraq/Story/0,2763,962034,00.html。5月23日アクセス)。

(続く)