太田述正コラム#4902(2011.7.31)
<終末論・太平天国・白蓮教(その3)>(2011.10.21公開)
3 太平天国(Taiping Heavenly Kingdom)
 (1)序
 では、以下の典拠等に拠って、太平天国とは何であったのかを押さえておきましょう。
A:http://en.wikipedia.org/wiki/Taiping_Rebellion
B:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E5%B9%B3%E5%A4%A9%E5%9B%BD%E3%81%AE%E4%B9%B1
C:http://en.wikipedia.org/wiki/Hong_Xiuquan
D:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%AA%E7%A7%80%E5%85%A8
 (2)背景
 「清王朝の下の支那は、19世紀中頃、自然災害が頻発し、経済問題と西側諸大国への度重なる敗北に苦しめられていた。
 とりわけ、第一次アヘン戦争における1842年の英国への屈辱的敗北があった。
 清国政府は、民族的には満州族だったが、主として漢人であった支那の民衆の多くから、非効果的で腐敗した外国人支配者達であると見られていた。
 反満感情は南部の労働者階級において最も強く、これらの不満分子が、宋王朝の時に南部に移住した客家(Hakka)民族集団の一員であったカリスマ性のある夢想家の洪秀全の下に蝟集した。
 これら労働者階級は、最良の土地を獲得するには到着した時期が遅すぎた。
 そのため、彼らは恒常的に紛争に関わっていた。
 深刻な問題の一つは、女嬰児殺しが盛んに行われていたことであり、巨大な不均衡が出来し、女性不足は、太平天国の初期の中心地域において最も甚だしかった。」(A)
 「<教団>組織の拡大は、公権力やその土地の有力者との摩擦を生じさせた。・・・拝上帝会の成員の逮捕が相次ぎ、洪秀全はそれまでの宗教活動から政治革命へと踏み出すことを決意する。」(B)
→このような混乱の時代が、支那では、20世紀中頃まで続くわけです。(太田)
 (2)太平天国の乱(Taiping Rebellion)
 「太平天国の乱は、近代支那における最初の全体戦争だった。
 太平天国のほとんどすべての市民が軍事訓練を受け、徴兵され、清帝国軍と戦わされた。・・・
 この戦争は全体的なものだった。
 というのは、どちらの側においても、非戦闘員がかなりの程度戦争の営みに参加させられ、かつ、どちらの側の軍も戦闘員に対してだけでなく非戦闘員一般に対しても戦争行為を行ったからだ。・・・
 15年間にわたった乱の間の死者総数の最も正確な諸典拠は、それを戦闘員と非戦闘員合せて約2,000~3,000万人としている。
 <ただし、>死の大部分は疫病と飢饉によるものだ。
 1862年に南京をめぐって行われた3回目の戦いでは、3日間で100,000人を超える死者が出た。」(A)
→日支戦争や国共内戦の時と同じですね。(太田)
 (3)太平天国の敗北理由
 「太平天国は外国人傭兵部隊とも戦わねばならなかった。上海の官僚と商人が資金を拠出して、西洋式の銃・大砲を整え租界にいた外国人を兵として雇用したのである。この軍はアメリカ人フレデリック・タウンゼント・ウォードを指揮官とし洋槍隊という名で発足した。翌年には、中国人を4,5千人徴兵し常勝軍と改名した。中国初の西洋風軍隊といってよい。ウォードの戦死後、多少混乱があったが、イギリス人チャールズ・ゴードンが指揮官に就任すると再び破竹の勢いを取り戻した。常勝軍の成功に倣い、各地に同様の軍隊がつくられた。常安軍や定勝軍、常捷軍がそれである。同じ中国人であっても洋式の軍隊装備をすれば強くなれる、ということを常勝軍は証明していた。この強さを目の当たりにした曽国藩らは以後軍隊の近代化に力を入れるようになる。つまり常勝軍は洋務運動の原点ともいえるのである。」(B)
→ざっくり申し上げれば、太平天国は、実質的に米英を敵に回したために敗北し、中国共産党は、名実ともに米英を味方につけたために、日中戦争及び国共内戦に勝利した、ということです。
 毛沢東は、この点についても、太平天国の前例から学習したのでしょう。(太田)
 (4)太平天国の特徴
  ア キリスト教の借用
 「洪秀全は農村の読書人の家庭に生まれ科挙及第を目指していたが、郷試に失敗し、特に25歳の時の3度目の失敗では失望感から病床についている。その病床で老人より現世の妖魔を取り除くべく派遣したとの幻覚を見る。しかし科挙に執着していた洪秀全は6年後の1843年春に再度郷試に臨むも落第した。この時梁発の『勧世良言』の影響を受けた洪秀全は孔孟の書を捨て、キリスト教へ改宗し儒生としての人生に終止符を打った。」(D)
 「太平天国は、洪秀全がイエスの弟であるとし、儒教、仏教、そして支那の民俗宗教をキリスト教の一形態で置き換えようとした。」(A)
 「1847年初め、洪秀全は広州に戻り教会で数ヶ月教義を学習し洗礼を求めたが、教会は教義に対する認識が不十分として拒絶した。」(D)
 「1847年に、洪は、米南バプティスト宣教師・・・に広州(Guangzhou)で2か月師事した。
 この時、彼はキリスト教の知識の大部分を得た。
 彼は、公式に旧約聖書を勉強した。
 その後で、洪は<この宣教師>に自分の興した宗派を維持することを助けてくれるよう求めたが、<この宣教師>は、(支那人達が経済的支援を得るためにキリスト教に改宗することに嫌気がさしていたことから、)彼に洗礼を施すことを拒否した。」(C)
→こうして、洪のキリスト教理解の誤りは正されないままになったわけですが、結局のところ、洪の宗派も、当時のキリスト教徒たる支那人同様、救済というよりは、現世利益を求めていた、と言えそうですね。
 後の中国共産党は、欧州由来のカトリシズムならぬ共産主義を借用し、無神論を標榜したわけですから、当然救済を求めたのではなく、現世利益を求めたわけであり、この点で、やはり太平天国と重なり合いますね。(太田)
  イ 最底辺階層たる蝟集者達
 「拝上帝会<(洪秀全のつくった宗派)>の参加者は、炭焼き・貧農・鉱山労働者・客家などの低階層が中心であった。郷里花県で成功せず、この桂平県で成功した大きな理由の一つに病調伏等の現世利益重視の布教がある。単なる宗教的熱意や倫理を説くばかりでなく、現在の生活でのメリットを強調することで・・・多くの信徒を獲得したのである。」(B)
 「社会的かつ経済的に、太平天国の叛乱者達は、大部分がもっぱら最底辺の階層出身だった。・・・
 帝国の官僚機構出身の指導者階層に属する太平天国軍要員はほとんどいなかった。
 地主はほとんど皆無だったし、占領地では地主達は、しばしば処刑された。」(A)
→この点でも、後の中国共産党とほとんど同じですね。(太田)
  ウ 対女性政策の「近代性」
 「太平天国の社会編成は軍事的な色彩を帯び兵農一致が原則であった。たとえば決起直後から男女は夫婦といえど別々の集団に分けられていたが、天京<(太平天国は南京を首都とした)>においてもそれは継続された。ただ天王以下首脳部は例外で、庶民には一夫一婦制を求めながら、旧約聖書における一夫多妻を理由に多数の妻女をもっていた。実際には中国皇帝の後宮制度に影響を受けたものであろうが、こうした王と庶民との格差に不満が高まり1855年に男女を分かつことは廃止され、新占領地でのみ実施された。
 この他、纏足も禁止された。元々客家出身が多い太平天国では纏足の習慣がなかった上に、戦闘において女性も輸送等の重要な役割を担っていたことが、纏足禁止令を出した理由である。この纏足の禁止や売春の禁止、女性向けに科挙を実施したことから、太平天国では男女平等を理念としていたかのように見える。しかし実際には女科挙合格者が重用されなかったり、後に濫発された王位に一人の女性も含まれてなかったことから判るように、男尊女卑的な考え方が払拭されることは無かったといえる。」(B)
→中共の男女平等政策と毛沢東の女狂いは、太平天国と洪秀全のカリカチュアであると言いたくなるほどです。(太田)
  エ 軍の規律・士気の高さ
 「軍は流賊的ではあったが、集団の性格は通常の流賊とは大きく異なっていた。匪賊を吸収しても軍内の規律は厳正で高いモラルを有していた。少なくとも南京建都まではその傾向が強かった。
 たとえば略奪行為そのものは言うまでもなく、勝手に民家に侵入することすら禁止され、「右足を民家に入れた者は右足を切る」といった厳罰主義でもって規律維持に当たったといわれる。一方で清朝軍の方が賊軍らしく不正略奪行為を行なっていたという。
 また志気の高さも太平天国軍の特徴である。」(B)
 「先立つアヘン戦争で消耗し、またアロー号戦争をも同時進行で戦わなければならない正規軍は広大な国内に分散配置せざるを得ず、正面からぶつかる事も不可能な事態さえ起こった。そして、大衆を吸収して膨れあがった太平天国軍は清軍を何度も打ち破った。」(B)
→後の中国共産党軍(八路軍)を、文字通り彷彿とさせますね。(太田)
  オ 最高指導者の継受方式
 洪秀全が死ぬと、その子供の洪天貴福(Hong Tianguifu。1848~64年。天王:6 June 1864~18 November 1864)が後を継ぎます。
http://en.wikipedia.org/wiki/Hong_Tianguifu
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%AA%E5%A4%A9%E8%B2%B4%E7%A6%8F
→この点は、中国共産党は踏襲しなかったところ、以前申し上げたことがあると思いますが、私は、それは毛沢東が、エゴの塊であったからであり、彼がもう少し正常な普通の人間であったならば、北朝鮮と同じような、毛王朝が支那に出現していたとしても不思議ではなかった、と思っています。(太田)
 (5)太平天国の継承者たる中国共産党
 「中国国民党の創始者である孫逸仙は、太平天国の乱から霊感を得たし、支那の最高指導者の毛沢東は太平天国の叛乱者達を腐敗した封建制度に抗した初期の英雄的革命家達と賛美した。」(A)
 「毛沢東率いる共産主義者達は、一般に洪と彼の運動を、彼ら自身のものの先駆けとなった正統な農民蜂起であるとして称賛した。
 孫逸仙は、洪と同じ地域出身であり、少年時代から、自分自身と洪とを同一視し続けた。」(C)
→客観的には既に記してきたところから明らかですが、主観的にも、(中国国民党は、とりわけ創立時においては容共政党の最たるものであったこともあり、)太平天国は、中国共産党の前身であったと言ってもあながち過言ではない、ということです。(太田)
 (6)日本人の受け止め方
 「洪秀全が明朝の後裔ではないこと、キリスト教を信仰していることが伝わ<ると、>・・・前者は朱子学的な大義名分論と正統論の点で嫌悪感を与え、後者は島原の乱を想起させ、幕末の世論に影響を与えた。・・・
 江戸幕府<は>・・・<太平天国の乱の平定に関与したところの>英仏両軍に1千頭ずつ・・・軍用馬<を>・・・売却・・・<し>た(この前後の日本の輸出品の中には主力品である生糸や茶の他にイギリス・フランス軍のために用いられたと思われる雑穀や油などの生活必需品の輸出記録が目立っている)。
 ・・・太平天国への嫌悪感は、実際に乱を見聞した人々にも継承されていた。太平天国の末期にあたる1862年6月2日、幕府の御用船千歳丸というイギリスから買い取った船が上海に到着した。交易が表面上の理由であったが、清朝の情報収集が本当の任務だった。江戸幕府は、清朝の動乱や欧米列強のアジアでのあり方に深い関心を寄せていたのである。乗船していたのは、各藩の俊秀が中心で薩摩藩の五代友厚や長州藩の高杉晋作らがいた。乗船していた藩士の日記には太平天国について「惟邪教を以て愚民を惑溺し」、「乱暴狼藉をなすのみ」という表現がならぶ。」(B)
→カトリシズム(プロト欧州文明)への嫌悪感が、同時代の日本人の間に反太平天国意識を呼び起こしたことが分かります。
 このプロト欧州文明的なものへの嫌悪感が、後に欧州文明的なものへの嫌悪感へとつながり、ファシスト政党たる中国国民党や、とりわけ共産主義政党たる中国共産党への嫌悪感を戦間期の日本人の間に掻き立てることになるわけです。(太田)
(続く)