太田述正コラム#0064(2002.10.8)
<ルソー(その1)>

 ジュネーブ(スイス)人ジャン・ジャック・ルソーの著作は、翻訳のせいもあるのかもしれませんが、時代の違い、土地柄の違いを感じさせ、ピンとこないものが多いのですが、さすがルソーと感心させられる箇所がないわけではありません。

 その一つが、ルソーが「エミール」の中でフランスの上流階級の子育てぶり等を批判している次のくだりです。(以下、岩波文庫版による。)

「母たちがその第一の義務を無視して、自分の子を養育することを好まなくなってから、子どもは金でやとった女に預けなければならなくなった。そこで、ぜんぜん愛情を感じない他人の子の母になった女は、ひたすら骨の折れることをまぬがれようと考えた。」(上35頁)、「子どもをやっかいばらいして、陽気に都会の楽しみにふけっているやさしい母たち・・」(上36頁)、「子どもに乳をやることをやめてしまったばかりでなく、女性は子どもをつくろうともしなくなった。それは当然の結果だ。母親の仕事がやっかいになると、やがて完全にそれをまぬがれる手段をみつけだす。・・こういう習慣は、そのほかにもある人口減少の原因とあいまって、来たるべきヨーロッパ人の運命を予告している。・・<このような>風潮は、やがてヨーロッパを人の住んでいない土地にするだろう。ヨーロッパは野獣の住むところになるだろう。といっても、それは現在の住民とそれほど変わった住民でもない。」(上37頁)、「母がいなくなれば子もいなくなる。母と子の義務は相互的なものだから、一方で義務を怠れば、他方でも怠ることになる。子どもは母親を愛する義務があることを知るまえに母親を愛さなければならない。血肉の声も習慣と配慮によって強められなければ、はやくから消えてしまうし、愛情はいわば生まれるまえに死んでしまう。」(上41頁)、「子どもを生ませ養っている父親は、それだけでは自分のつとめの三分の一をはたしているにすぎない。かれは人類には人間をあたえなければならない。社会には社会的人間をあたえなければならない。国家には市民をあたえなければならない。この三重の債務をはたす能力がありながら、それをはたしていない人間はすべて罪人であ<る>・・父としての義務をはたすことができない人には父になる権利はない。」(上46頁)、「金のためにやるのではそれにふさわしい人間でなくなるような高尚な職業がある。軍人がそうだ。教師がそうだ。ではいったい、だれがわたしの子どもを教育してくれるのか。・・それは<父たる>きみ自身だ。」(上47頁)。

 ここでルソーが指摘していること、すなわち、エゴイズムの蔓延、子育ての回避、少子化、倫理の退廃、は、欧州の将来に警告を発したものです。残念なことに、100%ルソーの予言通りになってしまっているのが現在の日本です。軍人は憲法上存在しないものとされ、また教師は労働者ないしサラリーマンばかりであり、当然のことながら母らしい母、父らしい父は払底しています。市民や社会的人間も一体どこにいるというのでしょうか。

 半世紀ちょっと前の日本は、全く違う国でした。
 先の大戦末期に特攻機で出撃して散華した人々(その中には日本人以外に朝鮮人も台湾人もいました)は7,000人にのぼりますが、とりわけ悲劇的なエピソードを一つご紹介しましょう。

 1944年12月、フジイハジメ少尉は、特攻隊に志願したが、妻帯者で子どももいることから、認められなかった。彼が数日後、自宅に帰ってみると、妻のフミコの遺書が置いてあった。妻は夫が本懐を遂げることができるように、子どもの一歳のチエコと四歳のカズコとともに荒川で投身自殺していたのだ。その五ヶ月後、フジイ少尉は、沖縄から特攻機で飛び立ち、散華した。衝撃を受けた政府はこの話を秘匿した(http://newssearch.bbc.co.uk/2/hi/asia-pacific/2266173.stm(10月8日アクセス)の書評欄から意訳)。(続く)