太田述正コラム#0066(2002.10.15)
<ルソー(その2)>

日本文明のユニークさは、文明のかたちが存在しないことです。
日本が、かつて中国文明を模範にして迅速にその社会を変革することができ、また後には欧米文明を模範にして再び迅速にその社会を変革することができたのは、日本文明のかたちのない柔軟性のおかげでしょう。
先の大戦をめがけての日本型経済システムの構築の時をふりかえっても、その感を深くします。
しかし、かたちはなくとも、不動の重心がなければ、日本文明が今日までそのユニークさを失わないまま、生き延びることはできなかったでしょう。その重心となってきたのが、連綿と続く日本の象徴たる天皇家であり、その天皇家に結びついた「公」(おおやけ)の観念です。
この観念の極限形態を我々は、前回紹介した特攻隊員の家族の痛ましいエピソードに見い出すことができます。
しかし、戦後の日本が国家戦略として、安全保障を米国に丸投げする吉田ドクトリンを採用した結果、「公」の観念(と「公」に対置される「自立」の観念)が急速に薄れてしまい、現在の日本の閉塞状況がもたらされた、というのが私の持論であることはご承知のことと思います。

ルソーは、18世紀のフランスの上流階級の間で、「公」の観念が衰退しつつあるとして、警鐘を鳴らしたのでした。
ところが、ルソーが提示した処方箋は、主観的には民主主義の理論でしたが、客観的には全体主義独裁の理論だったのです。

それでは、ルソーの言葉を引用し、コメントを加えていきましょう。
まず、押さえておかなければならないのが、「多くの人間が結合して、一体をなしているとみずから考えているかぎり、彼らは、共同の・・幸福にかかわる、ただ一つの意志しかもっていない。・・共同の幸福は、・・常識さえあれば、誰でもそれを見分けることができる。」(岩波文庫版「社会契約論」144頁)、「この一般意志によってこそ、彼らは・・自由になるのである」(同149頁)といった箇所です。
ルソーは、ある国家において、あらゆる懸案につきそれぞれただ一つの一般意志が存在し、その一般意志が見極められ、施策化されることによって、初めて国民は自由になる、と言っているのです。
「われわれの時代においてはイギリス人が、他のすべての人民よりも、より自由に近い・・」(同32頁)、とルソーはイギリスに敬意を表していますが、イギリス人にとって自由とは、国家の施策によって犯されてはならない個人の人権、が確保されている状態、を指すのであって、ルソーには、(アングロサクソンにとっての)自由の概念が全く分かっていないと言わざるをえません。
この自由についての「誤解」から、「自分たちの利益のためではなしに、多数者の利益のために多数者を支配するということが確かな・・もっとも賢明な人々が多数者を支配するのが、もっともすぐれた・・秩序である」(同100頁)と一般意志を体現するエリート(=前衛党!)による多数者(=大衆)の支配という考え方が出てきます。
このように一旦、前衛党による大衆支配を認めてしまうと、「市民が自由であることを妨げる・・悪人どもがすべてガレー船苦役に処せられるような国では、もっとも完全な自由をうけることができるであろう」(同150頁)と、一般意志を体現しない暗愚な大衆を蔑視し、迫害することが当然視されてしまいます。
「ひとたび、公共の職務が、市民たちの主要な仕事たることを止めるやいなや、また、市民たちが自分の身体でよりも、自分の財布で奉仕するほうを好むにいたるやいなや、国家はすでに滅亡の一歩前にある。」(同131-132頁)のはお説の通りなのですが、「公」への奉仕の観念を持っているのが前衛党員だけでは国が成り立ってはいかないので、「それぞれの市民をして、自分の義務を愛さしめるような宗教を市民がもつということは、国家にとって、じつに重大なことである」(同190頁)と、大衆のイデオロギーによる洗脳(=「公」への奉仕の観念の注入)の必要性が叫ばれます。
そこから、「それ(<=その宗教>)を信じることを何びとにも強制することはできないけれども、主権者は、それを信じないものは誰であれ、国家から追放することができる。・・もし、この教理を公けに受けいれたあとで、これを信ぜぬかのように行動するものがあれば、死をもって罪せらるべきものである」(同191頁)、「・・彼らを[正しい宗教に]つれもどすか、迫害するかが絶対に必要である」(同192頁)、というおぞましい結論が出てきます。「反革命分子」は(肉体的抹消を含む)粛正の対象とすべきだということです。

このルソーの思想は、当時、彼の居住地であるフランスと、祖国であるジュネーブ(スイス)の双方から厳しく糾弾されます。フランスのパリ高等法院の糾弾理由は、ルソーの宗教論(=イデオロギー論)が反キリスト教的であるというものでしたが、ジュネーブ市会の糾弾理由は、ルソーの政治思想そのものを俎上に載せたものであり、ルソーの思想が「無茶で、ふまじめで、不信心で、・・あらゆる政府を破壊する傾向がある」というものでした(同 解説234頁)。
ジュネーブの政治を理論化したと言ってもよいルソーの政治思想を、ジュネーブ市会が非難したことには興味深いものがあります。ジュネーブの人々には、ジュネーブのように(外に追放したり、そこから逃げ出すことが可能な)小さい政治単位にはふさわしい政治思想であっても、それが一般化され、(逃げ場のない)大きな政治単位に適用されることによる危険性が、はっきり見えていたのではないでしょうか。

しかし、やがて初期の迫害を乗り越えて、ルソーの死後、その思想は猛威をふるい始めます。
「ルソーのユートピアは、そのパトスによって人をう<ち>・・<そ>の政治思想は、大革命の進行につれて、一種の神話としてはたらくようになった。彼の影響が最も強かったのは、ロベスピエール、サン=ジュストの山岳等(ラ・モンターニュ)が主導権を握り、ジャコバン、サン=キュロットが活躍した時期である。『社会契約論』の思想はすでに1791年の『人権宣言』にも、1793年の革命憲法にも明瞭に影響している」(「世界の名著 ルソー」(中央公論社)解説54頁)という具合に、ルソーの思想がフランス革命をもたらします。
そのフランス革命がやがて暴走し、行き着く先がナポレオンによる全体主義独裁であったことは、ご存じの通りです。
そして、これを皮切りに、欧州はうち続く全体主義独裁の連鎖、これに伴う戦乱・荒廃の時代を迎えることになるのです。