太田述正コラム#2697(2008.7.29)
<新著・追加執筆分(その2)>(2012.2.1公開)
3 池田さん
 いわゆる防衛費をGNPの1%の枠内にとどめるとの1976年の閣議決定以降、初めて防衛費(当初予算)がGNP1%を突破したのが1987年度防衛費だ。
 ちなみに、翌1988年度防衛費も1%を突破したが、爾来、防衛費は二度とGNP(GDP)1%を突破することなく現在に至っている。
 残念ながら、GNP1%突破の経緯をきちんと描いた論文も本もまだ出ていないし、私自身それを行うつもりもない。
 ただ一つ言えるのは、一部に流布しているところの、椎名素夫議員にその「功績」を帰する説は恐らく間違いであろうということだ。
 1980年にレーガン政権が発足すると、カーター政権末期以来の米ソ第二次冷戦を背景とする米国による対日防衛努力強化要請が一層強まり、外務省や防衛庁は、主要装備の整備計画を前倒しすることによって米国の期待に応えるポーズをとったものの、大蔵省はGNP1%枠内に防衛費をとどめることにこだわり続けていた。
 このような状況の下、経理局長に就任した防衛庁キャリアの池田さんは、防衛課長時代の部下であった私を指名して予算決算班長に就け、二人でGNP1%枠突破作戦を展開した。
 このように、当時はようやく経理局長と予算決算班長にこそ防衛庁キャリアが就くようになっていたけれど、会計課長と予算決算斑の海上自衛隊担当と航空自衛隊担当には依然大蔵官僚が就いていた。
 それどころか、当時の防衛事務次官も官房長も大蔵官僚だった。
 だから、言うなれば、「敵」を多数身内に抱えながら、われわれは上記作戦を展開したわけであり、本件での局長の補佐は、(コピーとり等の単純作業を除き、)資料作り等、すべて私一人で極秘裏にやらざるをえなかった。
 この作戦の遂行と、何もなくても激務であるところの予算決算班長としての本来業務とを両立させることは並大抵なことではなかった。
 私は自分の本務はGNP1%突破作戦だと割り切ることにしたのだが、私が防衛庁時代に最もよく働いたのはこの時期だったと思う。
 ちなみに、当時の大蔵省の防衛担当主計官は西村さん(後に銀行局長)、次いで岡田さん(後に環境事務次官)であり、防衛係の総括主査は黒田さん(若くして死去)、次いで佐藤君(年次は私より2年下。現在の金融庁長官)だった。
 私は、久保さんのGNP1%枠への思いも知っているだけに、防衛をめぐる戦後のタブーの一つを粉砕することに大きな意義を感じていた。
 池田さんも全く同じ考えだった。
 そのために行ったのは、自民党の防衛族議員達に対する徹底したお涙頂戴攻勢だった。
 久保さんが指摘されたような理由で、それまで主要装備に偏重した防衛予算編成が繰り返されてきた結果、防衛費は後方経費が極めて圧縮されたアンバランスな構成となっていたのだが、われわれ二人は、後方経費から捻出されるところの自衛隊員の隊舎や官舎がいかに狭くてボロか、といったことをもっぱらプレイアップすることとし、全国で一番みすぼらしい隊舎や官舎ばかりを探して写真に撮り、その写真集を片手に連日、防衛族議員の間を説明して回った。
 この間、池田さんから託された書簡を添えた1%突破の必要性を訴えた資料を、ひそかに(首相官邸では目立つので)首相公邸で当時の中曽根首相の政務担当秘書官に私が渡したり、といったこともあった。
 ちなみに池田さんは、中曽根さんが防衛庁長官の時の長官秘書官であり、その時のことを書いた著書『長官空をゆく–独立日本の一原点』がある。
 (池田さんの著作には、共著だが、『イギリス国防体制と軍隊』もある。この本は、池田さんが英国の国防大学に一年間留学した成果でもある。私が池田さんと初めて防衛論議を戦わせたのは、スタンフォード大学留学から帰国する際にロンドンに立ち寄り、当時留学中であった先輩の池田さんのお住まいを訪ねた時だ。私は、予算決算班長を「卒業」してから、池田さんの配慮で、異例にも、この国防大学に二度目の留学をすることになる。しかし、私のためにその手配をしてからわずか2年余りで池田さんは他界されてしまう。)
 その時点までの防衛費については、確かに正面経費偏重であったかもしれないけれど、防衛庁自身がそれでよしとしてきたというのに、にわかに掌を返し、デマゴギー的な説明を行ってGNP1%枠突破を図るなんてけしからん、と大蔵省は気色ばんだ。
 しかし、大蔵省も執拗に逆攻勢をかけたものの、次第にわれわれ二人の側の言い分を支持する空気が防衛族議員達の間で醸成され、ついにGNP1%枠を超える防衛予算が決定されるに至る。
 そこで急遽、この増加した予算枠を具体的経費で埋める作業が必要となり、防衛庁の予算決算斑が私以下総出で大蔵省の防衛係に赴き、その作業を行うという、空前絶後の事態になったことがつい昨日のように思い出される。
4 終わりに
 私は、既に池田さんが亡くなられた年齢を超え、久保さんが亡くなられた年齢に達している。
 私は、自分に残された人生を、僭越かもしれないが、お二人の遺志を継ぐつもりで、全力で防衛省、ひいては日本の再生のために捧げるつもりだ。
 改めてお二人のご冥福を心から祈りたい。