太田述正コラム#0091(2003.1.7)
<民主主義嫌い(アングロサクソン論9)>

 私が1988年に一年間留学したカレッジ(Royal College of Defence Studies)には、毎年、香港政庁から学生が来ており、私のときは、同政庁のイギリス人官僚でした。
 香港は当時イギリスの直轄植民地であり、香港総督がイギリス女王の名代として全権を握っていました。私のクラスメートは、その総督の下で働いていたわけです。
 アヘン戦争後の1842年の南京条約で香港の割譲を受けて以来、イギリスの香港統治は155年間にわたりましたが、香港では中国に返還される最後の最後まで、初歩的な民主主義すら実現されることはありませんでした。
 その直接的な理由は、被治者たる中国人住民が民主化を要求しなかったからです。
 実際、「香港では民主主義についてのたわごとなどさっぱり聞かれない。行政と立法は、なんの臆面もなく植民地の方針にそっておこなわれる。・・香港の自由主義者が嘆き、ロンドンから訪ねて来た社会主義者が頭をひねったものだが、この植民地には明白な政治的感情など全然なく、選挙権(諮問機関としての議会を選ぶ選挙に関するもの(筆者注))の制限緩和や市街地会議の権限拡大についても、民衆はほとんど関心を示さない。ましてや、「自治政府」を求める・・ 要求など・・ない。」(リチャード・ヒューズ「香港」タイムライフインターナショナル 1968(中嶋嶺雄「香港」時事通信社より孫引き)というのが実態でした。
 要求がない以上、イギリスが香港に民主主義を導入しようとしなかったことは当然です。なぜなら、我々の先入観に反し、イギリス人はそもそも民主主義が嫌いだからです。
 イギリスが筋金入りの個人主義社会であることには既に触れましたが、個人主義社会では自由競争の結果、必然的に階層分化がもたらされます。この階層分化を前提にすると、民主主義は、有能で財産と教養ある上流階層を犠牲とする、無知で無能で貧乏な人々による支配以外のなにものでもないことになります。イギリス人がそんな民主主義を好きなわけがないのです(注)。

(注)70年代初頭から80年代初頭にかけての名香港総督マクレホース(MacLehose)は、辞任にあたって、在任中香港に民主的選挙制度を一切導入しようとしなかった理由を問われて、「もし共産党が勝利すれば香港の終わりだし、国民党が勝利すれば共産党を導き入れることになるからだ」と答えています(http://www.atimes.com/atimes/China/EE14Ad01.html。2003年5月14日アクセス)。建前論としてはなかなかよくできた回答ですね。

 19世紀初頭までのイギリスやbastardアングロサクソンたるアメリカでは、代議政治がすでに確立しており、それはそれで世界史上特筆されるべきことなのですが、それらは、あくまでも、上流階層による代議制であり、英米いずれにおいても、反民主主義的風潮が支配的であったのです。 
16世紀において、ホッブスが、絶対王政を擁護したことは、よく知られていますが、アメリカ独立革命に大きな思想的影響を与えたジョン・ロックも、決して民主主義者ではありませんでした。
 「人々が社会を取結ぶ大きな目的は、その所有を平穏安全に享受するにあり、そのための大きな手段方法は、その社会で立てられた法にあるのだから、・・立法権は、・・国家の最高権である。・・立法者(が作る法[が]、)自然法(コモンローのことを言っていると考えればよい(筆者注))に適合して[さえいれば、]・・立法権は、それが一人の手にあろうと、また数人の手にあろうと、あるいは常設的であろうと、隔期的であろうと、最高権である[ことに変わりはない。](『市民政府論』岩波書店版)
  18世紀は、前に登場したアメリカのジェファソンに代表になってもらいましょう。
 「一般的にいえば、どの国家においても、その農夫(財産所有者とおきかえて読めばよい(筆者注))にたいして市民のその他の階級が占める割合は、その健全な部分にたいするその不健全な部分の割合であり、その国の腐敗の度合を十分に測りうる絶好のバロメーターである。」(ヴァージニア覚書 1791年)
 「[農夫などのように、] 自分の財産[を持ち、] 満足のいく境遇[にあるものは、] 法と秩序の維持に関心をもっています。そしてこのような人々[が]、・・公務にたいする統制権を[持ち]、自由を[享受すれば、社会にとって、]安全で・・あり、有益でしょう。[しかし、]これらのものは、・・都市の無頼漢・・にあっては、公私のあらゆることの破壊と破滅にただちに悪用されることになりましょう。」(ジョン・アダムスへの手紙 1813年)(いずれも、C.B.マクファーソン『自由民主主義は生き残れるか』岩波書店 1978年より)
 19世紀に入るとようやく、個人主義=階層分化社会においても、民主主義が実現可能であると主張する、ジュレミー・ベンサムらの人々が現れます。
 ベンサムは功利主義の考え方にのっとり、個人個人が、それぞれ自分の効用を極大化しようと富、権力を追求する結果として、社会全体として最大多数の最大幸福が達成できるとし、当時のイギリスは、まさにそのような社会であると考えました。そして、彼は貧乏人が選挙権を与えられたとしても、衆を頼んで財産の平準化や財産制度の破壊をめざすようなことはありえない。なぜなら、そんなことをすれば社会全員が享受している効用水準が低下し、自分達を含め、みんなが損をしてしまうことが分からないはずがないからだというわけです。(マクファーソン前掲書参照)
 しかし、19世紀の後半に至っても、依然、民主主義に懐疑的な知識人は多かったのです。
 J.S.ミルは、完全な民主主義は、生産協同組合からなる、ミル流の社会主義社会の到来を待たなければ、実現不可能であると考えていました。
 「一人、一票は、[資本主義体制のもとでは、]正義に反し、他の一切の階級と子孫を犠牲にして、彼ら自身の利己的性向と彼ら自身の近視眼的な善についての観念にしたがう、[より、数の多い労働階級をして、]その排他的な階級利益によって立法および行政の過程を左右」せしめるであろうとし、雇用者、実業家、専門職業の人々に複数投票権を与えるべきものと主張しました。(『代議政治論』。マクファーソン前掲書より孫引き)
 このような考え方が、19世紀にその後半生をイギリスで過ごしたマルクスにも大きな影響を及ぼしたことは、十分考えられるところです。彼の議会制民主主義に対する侮蔑の念は、イギリスの伝統的な考え方に根ざすものとの見方もできるのです。
 ところで、案ずるより生むがやすしということでしょうか、ミルの死後11年たった1884年以降、大衆の要望にこたえて、イギリスでは男子普通選挙制度が実現されていくのですが、ミル達が懸念したような形での、労働者階層による政治の専断的支配は起こりませんでした。
 その後のイギリス民主主義100有余年の経験は、民主主義が、少なくともイギリスでは実行可能であったことを示しています。しかし、依然としてイギリス人は、民主主義が、世界のどこにでも、時と場所を問わず、適用できる普遍的政治システムであるとは考えていません。
ついに香港が民主化することがなかった背景がお分かりいただけたでしょうか。