太田述正コラム#5400(2012.4.4)
<黙示録の秘密(その7)>(2012.7.20公開)
 (7)黙示録の影響
 「・・・パトモスのヨハネに起因するところの、広大無辺な(cosmic)戦争の描写は幾ばくかの欧米文化における最も偉大なる絵画<(注21)>、音楽<(注22)>、そして詩<(注23)>を鼓吹した。
 (注21)Gustave Dore、Albrecht Durer、William Blake、Peter von Cornelius、Hieronymus Bosch、Fra Angelico、Michelangelo、John Martin、William Holman Hunt、Lynn Morgan、Jacobello Alberegno、Bruegel, Pieter the Elder、Edward Coly Burne-Jones 、Roger Wagner、Richard Harrison、のそれぞれによる Book of Revelation(黙示録)絵画が紹介されている。↓
http://www.jesuswalk.com/revelation/revelation-art.htm
 (注22)クラシック曲については、メノッティ、ジャン・カルロ(Gian Carlo Menotti。1911~2007年)のバレエ音楽「セバスチャン」から組曲、交響詩「黙示録(Apocalypse)」
http://www.hmv.co.jp/product/detail/92608
http://www.youtube.com/watch?v=HsOjcaW9ZA4
くらいしか見つけられなかった。
 (注23)Adrian Henri、Stanley Kunitz、WS Merwin、 W. H. Auden、のそれぞれによる Apocalypse(黙示録)をテーマとする詩が紹介されている。↓
http://www.poetryarchive.org/poetryarchive/search.do?method=theme&searchTerm=apocalypse
 政治家達と説教者達、福音主義的SF作家達と金本位制推進論者(gold-bug)たるファイナンシャル・プランナー達は、全員、どうやって、不安を撒き散らすところの、迫りくる大災厄の大変動図絵群によって利潤をあげるかを知っていた。・・・」(A)
 「・・・それに加えて、ヨハネは、啓示<、すなわち黙示録>を、完全な破壊ではなく、新エルサレム(New Jerusalem)<(注24)>という形で、楽観主義的に終えたことにより、<黙示録>は、我々が恐れるものだけでなく、「我々が希望を抱いているもの」についても語っているのだ、とパゲルスは記す。・・・
 ヨハネは、「人類の歴史を通じて、どこにいようと、人々が、初めて聖なる正義について思いをめぐらせた時以来、尋ね続けてきた切実な問いであるところの、悪が優位にあるのはいつまでで、いつ正義が行われるのか、について語ろうとしている、とパゲルス女史は記す。」(C)
 (注24)エゼキエル書(book of Ezekiel)の中で登場。黙示録の中では天国のエルサレム(Heavenly Jerusalem)として、また、その他の書の中ではシオン(Zion)として登場。黙示録の中のそれは、エゼキエル書の中のそれの1,000倍の規模。
 バビロニア帝国に対してイスラエルの人々が叛乱を起こしたため、バビロニアのネブカドネザル(Nebuchadnezzar)王の軍隊によって紀元前596年に(第一神殿を含む)エルサレムが破壊され、イスラエルの貴族達が捕囚としてバビロンへと拉致された時に、イスラエルの人々の間で黙示録的ないし新エルサレム的発想が生まれた。
http://en.wikipedia.org/wiki/New_Jerusalem
 (8)その他
 「パゲルスは、福音主義者達等の保守主義者達の気持ちを角で突き刺したままにして、リベラルなキリスト教徒達にとって全くもってなるほどという(reasonable)感銘を与えるところの、敬意を払うべき学術的な種類に属する主張を提示する。・・・」(E)
→ところが、この本を批判する声が米国のキリスト教原理主義の間から出ている気配はありません。彼らはパゲルスの学術的なこんな本を読むような階層の人々ではない、ということなのかもしれません。(太田)
3 私のコメント
 (1)序
 この際、お時間があれば、「宗教を信じるメリット?」シリーズ(1724、1727、1728、1730、1734、1736)(未完)を読み返して欲しいですね。
 この↑、昔のシリーズにおいて、私は、コラム#1727で「宗教・副産物説」を、また、コラム#1728で「宗教・適応説」を紹介したわけですが、下掲記事を読むと、もう一つ、「宗教・非適応説」があり、むしろこれが米国での通説であるかのような説明がなされています。
 「・・・進化生物学者のデーヴィッド・スローン・ウィルソン(David Sloan Wilson)とエドワード・O・ウィルソン(Edward O. Wilson)が提案したところによると、宗教性は集団を一つに結び付け、「一人が全員のために、全員が一人のために」という思い込み(mind-set)を形成させることを助けるところの進化的適応なのだ。
 感情的に激しく、そして互いを結びつけるところの、諸宗教を発展させた諸集団は、それほど固く結び付けられていない諸集団よりも、長期的には、競争上有利となり永続するからだ<というのだ>。・・・
 <しかし、>大部分の社会科学者達は、宗教は適応ではないという考えをとってきた。
 彼らは、文明の勃興を、血縁関係(kinship)に係る観念・・我々は自分達の遺伝子群を共有している者達には親切にできる・・と相互性・・我々はいつの日か恩を返してくれるかもしれない者達には親切にできる・・とを用いて説明しようとしてきた。
 我々が二度と出会うことがない見知らぬ人々との協力<することがあるの>は、進化的「過ち(mistake)」である、と考えられてきた。
 しかし、仮に<二人のウィルソンのように、>宗教を、諸集団が競争するのを助ける適応であると見れば、宗教は、はるかに大きな意味を持ってくるのだ。・・・」
http://ideas.time.com/2012/03/27/have-we-evolved-to-be-religious/
(3月28日アクセス)
 これは、ちょうど5年前に上記シリーズを執筆していた当時、私が「宗教・非適応説」の存在を調査不足で見落としていたというより、その少し前から、米国で、突然、キリスト教、とりわけ原理主義的キリスト教の急速な退潮が始まっていた(コラム#省略)ことを反映して、「宗教・非適応説」もまた急速に米国で勢いを増したからである可能性が高い、ということに一応させてください。
 なお、私としては、5年前は、「宗教・副産物説」の方がもっともらしいと思っているいと記した(コラム#1734)ところ、これを、私は「宗教・適応説」はとらない、という形へと微修正をさせていただきます。
(完)