太田述正コラム#5402(2012.4.5)
<黙示録の秘密(その8)>(2012.7.21公開)
 (2)イエスの過ち・・釈迦と比較して
 さて、私は、コラム#5397で、「黙示録のような大悪書の出現にはイエスにも大いに責任があると・・・思う」と記しましたが、このことについて、ここで説明しておきたいと思います。
 (これまでに既に申し上げたことがある話が少なからず出てきますが、復習ということで、あしからず。)
 私が、最新の人間科学を踏まえつつ、人間は、本来的には狩猟採集社会に適合的であったところの人間主義的な存在であったが、(狩猟採集社会に比べて、貧しく、栄養失調気味で、余暇がなく、権威・権力・富が少数に集中し、定着していて、不衛生で、人口過多で、戦争が多く、ストレスが多い)農業社会(コラム#2780、#3613)ないし(本来の自然から疎外された)都市社会になったために、この人間主義的な本性が壊れてしまっている、という考えであることはご存じのとおりです。(人間主義については、コラム#113、114、3140、3489、3491、3571、3573、3575等参照。)
 このような農業社会ないし都市社会において、人々に対して、現世における悲惨な境遇をそのまま受忍させるべく、来世における救済を約束する形の、(権威・権力・富を持つごく少数の者にとっては好都合な)宗教が発達しました。(コラム#4652)
 しかし、人々の不満、怒りは次第に募っていきます。
 こうした背景の下、イエスは、「福音書やパウロの書簡に<書>かれ<ているように、>・・・愛(<ギリシャ語で言う>・・・アガペー)<すなわち、>・・・自己を捨て他者のために行う無償の愛<を説きました。ちなみに、この愛は>、根底において少しも自己愛を含まない<愛であったのに対し、>異性愛(<ギリシャ語で言う>エロース)には、根底に自己愛が潜んでいる」
http://www.geocities.jp/fujisawa_church/shiryo/bud-chr.htm#(3)
という違いがあります。
 つまり、イエスは、人間主義的な本性が壊れてしまっているところの、人々に対して、人間主義的であれ、と直截的に当為命題の形で説教した、というわけです。
 ところが、イエスの400年ほど前に生きた釈迦の場合は、同じ背景の下で、「生きることの苦から脱するには、真理の正しい理解や洞察が必要であり、そのことによって苦から脱する(=悟りを開く)ことが可能である(四諦)と<し、>それを目的とした出家と修行、また出家はできなくとも善行・・・(八正道)・・・の実践を奨励」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E6%95%99
したのです。
 一見不可解であるけれど、これは、私の見解では、悟りを開くとは、自分の人間主義的な本性を再発見することであって、かかる本性に従って生きるようになれば、自ずから苦から脱し幸せになることができるよ、ということなのです。
 その根拠をお示ししましょう。
 典拠が付されていないものの、仏教に馴染みのある人にとっては常識的なことですが、「我<は>常住であり、他との何らの関係をもたないで単独で存在することができ・・・、それは働きのうえで自由自在の力をも<ち、>この我によって人間生存は根拠付けられ、支配されていると考える<ところの>・・・ウパニシャッド哲学<の>・・・実我観念を・・・釈迦は・・・批判し、「我として認められるものはない」として、諸法無我と説いた<上で、>これを色受想行識の五蘊について<も>説き、人間生存は無我である五蘊の仮和合したものであるから仮りの存在であると説いた」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%91
とされています。
 この趣旨のことは、下掲にも出てきます。
http://www.pbs.org/thebuddha/blog/2010/Mar/17/empathy-and-compassion-buddhism-and-neuroscience-a/
 この釈迦の考えは、最近の人間科学の進展により、科学的な所見であることが次第に明らかにされつつあります。
 まず、釈迦が悟りに至る手段として奨励したことの一つであるところの、座禅の修行を積めば積むほど、自意識(self-focus)に関わる脳の部位が非活性化するために要する時間が短縮する、また、他人の嘆きの声が聞こえた時に、共感(empathy)に関わる脳の部位が、熟練した座禅者は、新参者よりも活性化する度合いが大きい、ことが判明しています。
http://www.pbs.org/thebuddha/blog/2010/Mar/17/empathy-and-compassion-buddhism-and-neuroscience-a/ 上掲
 更に、他人の情的状況を見たり聞いたりすると、同じ状況を処理する自分自身の神経網もまた、あたかも鏡に映したかのように活性化すること、が判明しています。
http://en.wikipedia.org/wiki/Empathy
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<補注:人間主義的本性が壊れた人々の世界・・インド亜大陸北部とローマ帝国>
 精神病質者(psychopath。反社会的または暴力的傾向をもつ)の若者に人々が不条理に痛みを感じさせられている映像を見せると、健常者たる若者に見せた場合に比べて、どちらかというと痛みを処理する神経回路がより活性化する一方、([情動反応の処理と記憶において主要な役割を持つ])扁桃体(amygdala)と(報償感に反応する部位である)腹側線条体(ventral striatum)が強く活性化し、自己規制と道徳的推論に関わる脳部位は活性化しないことが判明している。
http://en.wikipedia.org/wiki/Empathy 上掲
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%81%E6%A1%83%E4%BD%93 ([]内)
 釈迦の生きたのはマハーバーラタ(マハーバラータ)(コラム#777、2008、4279、4290)が描写する「何10年も戦争が続き、偽計・裏切り・殺人が繰り返され、1800万人もの人々が戦死する世界」(コラム#2008)が必ずしも誇張ではなかったところの、インド亜大陸北部だったし、イエスの生きた帝政ローマ(地中海周辺)には200以上の円形闘技場が設置され、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%86%E5%BD%A2%E9%97%98%E6%8A%80%E5%A0%B4
人々はそこで剣闘士が他の剣闘士や死刑囚や猛獣を相手に殺し合いを演じるのを見るのが一番の楽しみだった
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%A3%E9%97%98%E5%A3%AB
、といったことから、紀元前後のインド亜大陸北部や地中海周辺それぞれにおける人間主義毀損の程度が推し量れるというものだ。
 精神病質者は人間主義的本性が壊れているところ、釈迦やイエスが生きた時代に生きていた人々の多くは一種の精神病質者であった、と見ることもできそうだ。
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 以上からお分かりになるように、釈迦もイエスも、農業社会化ないし都市社会化の進展とともに、人間主義的本性が壊れて堕落してしまっていた人類を救済すべく、人間主義の復活を希求した、という点では違いがなかったものの、人間主義復活への方法論において、両者には大きな違いがあったわけです。
 それは、釈迦は、人間主義の内面からの発露を追求したのに対し、イエスは人間主義の外からの注入を図った、という違いです。
 イエスの場合、このことと表裏の関係にあったのが、彼の眼から見て非人間主義的な存在であったところの既存宗教、とりわけ彼自身が信者であったところのユダヤ教、の「堕落」を、彼自らが糾弾した行動です。
 ヨハネの福音書から引用すれば、「2:15 彼は縄でむちを作り、羊や牛をすべて<エルサレムの>神殿から追い出した。両替屋の通貨をまき散らし、彼らの台をひっくり返した。2:16 ハトを売る者たちに言った、「これらの物をここから持って行け!わたしの父<(神(太田)>の家を市場にするな!・・・2:18 それでユダヤ人たちは彼に答えた、「こんな事をするからには、どんなしるしを見せてくれるのか」。2:19 イエスは彼らに答えた、「この神殿を壊してみなさい。わたしは三日でそれを建て直そう」。2:20 それでユダヤ人たちは言った、「この神殿は四十六年かかって建てられたのに、あなたはそれを三日で建て直すと言うのか」。2:21 しかし、彼は自分の体という神殿について話していた<のだ>。」
http://www.geocities.jp/todo_1091/bible/jesus/temple-clean.htm
がそうです。
 「イエス<は>、・・・「<ユダヤ教の総本山ともいうべき>神殿がすでに必要なくなった」と言う<過激極まる(太田)>考えであった」
http://www.geocities.jp/todo_1091/bible/jesus/temple-clean2.htm
ことが見て取れます。
 この種の、他の宗教や宗派に対する糾弾行動は、釈迦の事績においては全く見出すことができません。
 イエスは戦闘的な宗教者であったのです。
(続く)