太田述正コラム#5533(2012.6.12)
<映画評論32:マンデラの名もなき看守(その4)>(2012.9.27公開)
 最後に、マンデラについて、グレゴリーとの関連において、補足的にもう一度触れておきましょう。
 マンデラは、自分の大統領就任式に、かつての敵との和解の象徴として、グレゴリーを、元大統領のピーター・ボタ(Pieter Botha)や、マンデラに死刑を求刑した、検察官のパーシー・ユター(Percy Yutar)らとともに招いています。(D)
 そのマンデラは、2010年に開催した自分の釈放20周年の特別晩餐会に、(感謝の意を表すために、)前夫人のウィニーとともに、かつての自分の看守の一人を招いています。
 この時点では既にグレゴリーは亡くなっていたわけですが、仮に彼が存命であったとしても、マンデラは、彼を招いてはいなかったと思われます。
 マンデラが彼に感謝すべきいわれなどないからです。
 では、招かれた一人の看守とは一体誰なのでしょうか?
 それは、クリスト・ブランド(Christo Brand)
< http://en.wikipedia.org/wiki/Christo_Brand >
です。
 マンデラは、彼のブランドとの友情は、「私を監獄に収容していた人々とも同じ人間として分かり合えるとの私の信条を強化してくれた」と述べています。
http://news.bbc.co.uk/2/hi/africa/8501149.stm 
 ヒラ看守と友情を育むことなどありえないと記しましたが、その例外が現実に起きていたのです。
 1978年、18歳の時に、ブランドは囚人たるマンデラの担当になるのですが、アパルトヘイトを当然視していたブランドは、マンデラと接することで、次第にその考えを改めて行くのです。
 (何やら聞いたことがある話ですね。グレゴリーは、ブランドの話をパクった可能性が大です。)
 歩きながら、マンデラは、ブランドにその両親のこと、出身のこと、家族のことを質問します。
 マンデラは、ブランドに、自らを向上させるために、更に学ばなければならない、と示唆するとともに、彼の両親によろしく伝えるようにと言うのです。
 やがて、彼は、マンデラと若干の囚人達の教育的研究の担当にさせられます。
 マンデラは、刑務所を大学に変える決意を抱いていました。
 無学で刑務所にやってきた囚人達を、出所する時までに、強力な教育された人間へと変貌を遂げさせよう、というのです。
http://www.guardian.co.uk/world/2007/may/20/nelsonmandela
http://theforgivenessproject.com/stories/christo-brand-vusumzi-mcongo-south-africa/
 さて、その後、別の刑務所に移され、大幅な自由が与えられるようになったマンデラは、(マンデラとともにこの刑務所に異動させられていた)ブランドの家を訪問し、奥さんに会っています。
 その時、マンデラは、まだ生まれて数カ月の、ブランドの息子を抱いています。
 この子がもう少し大きくなった時、マンデラとその同僚たる囚人が、この子にチョコレートをあげたことがあり、それ以来、この子は、「あの二人の年寄りを訪ねようよ」と繰り返し口にするようになったといいます。
 そうすれば、お菓子をもらえることを知っていたからです。
 更に後、マンデラが釈放され、大統領になり、大統領を退いた時、マンデラの教育基金がブランドの息子に奨学金を授与しました。
 給費の条件はエンジニアになる勉強をすることでしたが、この子は潜水夫になりたいと言い出します。
 そこで、ブランドはこの子をマンデラのところに連れて行きます。
 すると、マンデラは、この子の希望を尊重すべきだ、とブランドに言い渡すのです。
 マンデラが最も長く収容された刑務所は、現在、記念館になっており、ブランドを含む、この刑務所の元看守8人と、この刑務所に収容されていた元囚人20人とが、一緒に平等な立場で和気あいあいと働いています。
http://www.guardian.co.uk/world/2007/may/20/nelsonmandela 前掲
 このように、マンデラは、赦しの権化(epitome of forgiveness)のような人物であり、あらゆる人々に手を差し伸べるのを常としました。
 彼がまだ囚人であった時に、アパルトヘイトの制度設計者であるヘンドリク・フェアヴォード(Hendrik Verwoerd)<(注)>が亡くなりましたが、マンデラがついに釈放された時、最初に訪れた人々のうちの一人が、フェアヴォードの未亡人でした。
 (注)1901~66年。南ア首相:1958~66年(暗殺)。オランダに生まれ、幼児の時に両親の南アへの移住に伴い、南アへ。南アの大学で、学部では哲学と心理学、修士、博士課程では心理学を専攻。当時ケープタウンにあった議会内で、精神障害の議会職員に刺されて死亡。
http://en.wikipedia.org/wiki/Hendrik_Verwoerd
 彼女は、白人のみの郊外の自宅にマンデラをもろ手を挙げて迎え入れたものです。
http://theforgivenessproject.com/stories/christo-brand-vusumzi-mcongo-south-africa/ 前掲
 また、マンデラが、大幅な自由を与えられつつ、最後の刑務所生活を送っていた頃、看守のスワート(Swart)がマンデラの身の回りの世話をすることになった時のことです。
 マンデラはベッドメーキングは自分でやるといって聞きませんでしたし、洗濯も自分でやるというので、スワートは洗濯機の使い方をマンデラに教えました。
 皿洗いも自分でやるというのに対してだけは、スワートが文句を言い、結局、交互に皿洗いをすることになったというのです。(F)
 マンデラは、南ア大統領になって、わずか一期で退いています。
 75歳で就任し、80歳で辞めた勘定であり、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8D%E3%83%AB%E3%82%BD%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%83%87%E3%83%A9 前掲
確かに高齢ではあったけれど、象徴的大統領として二期目を務めることも不可能ではなかったでしょうから、お人柄である、としか言いようがありません。
 このことが如実に物語っているように、世の中には、マンデラのような徳の高い人物が本当にいるものなのですね。 
(完)