太田述正コラム#0127(2003.6.21)
<アングロサクソンと欧州――両文明の対立再訪(その2)>

(四ヶ月以上前のコラム#100(2003.2.18)の続きです。復習の意味で、そのコラムの末尾を再掲載しておきます:
・・・ナショナリズム、共産主義、ファシズムと続く民主主義独裁の考え方のイデオローグがジュネーブ(スイス)人ジャン・ジャック・ルソーであることは、既にコラム#71で述べたところですが、民主主義独裁が世界で最初にフランスという国家で成立したのには必然性がありました。
というのはフランスにおいて、
第一にイギリスに引き続き、世界で二番目の国家(Nation State)が英仏百年戦争の結果生まれていたこと、
しかもそれが、
第二にイギリスとは全く異なり、カトリック的王権神授観念に立脚した国家であったこと、
そして、
第三に17世紀にフランス人神父ジョセフ・デュ・トロンブレー(Joseph du Tremblay)によって、覇権の確立という国家(State)目標をイデオロギー(カトリシズム)と国民(Nation)を手段として追求するという考え方が世界で初めて生み出され、その考え方がフランス王のルイ13世や14世によって採用され、遂行された、
という歴史があったからです。)
                           
2 本論
 ヘンリー・キッシンジャー(Henry Kissinger)の912頁に及ぶ浩瀚な主著「外交(Diplomacy。1994年)」の記述範囲は、17世紀のフランスの宰相リシュリュー(Richelieu)論から20世紀の冷戦の終焉までとなっています。
 なぜ17世紀からかは、キッシンジャーの処女作(博士論文)が欧州におけるバランス・オブ・パワーによる平和の回復を論じたA World Restored: Castlereagh, Metternich and the Restoration of Peace, 1812-1822, 1957 であったこと(http://www.nobel.se/peace/laureates/1973/kissinger-bio.html。6月21日アクセス)、そしてこのバランス・オブ・パワー論をひっさげ、ニクソン政権下で安全保障担当大統領補佐官・国務長官としてイデオロギーの相違を乗り越えて米ソデタントを実現し、米中和解をなしとげ、一方で北爆の強化とラオスやカンボディアへの軍事介入という具合にベトナム戦争のエスカレーションを図り、その上でベトナム戦争を終結に導き(http://www.pbs.org/wgbh/amex/china/peopleevents/pande02.html。6月21日アクセス)、米国による米ソ冷戦の平和裡の最終勝利へ向けての環境整備を行った、とキッシンジャー自身が考えているであろうことを踏まえれば、自ずから明らかです。(実際には、デタントは心おきなくソ連をしてアフリカ等の第三世界への進出を加速せしめただけであり、ベトナム戦争終結・・この功績でキッシンジャーはノーベル平和賞を受賞(1973年)した・・は米国によるベトナム戦争敗北(1975年)をかくすイチジクの葉っぱでしかなかったわけです・・このことをお見通しであった(?)同時受賞の当時の北ベトナム外相レ・ドク・トは受賞を辞退した(http://www.nobel.se/peace/laureates/1973/index.html。6月21日アクセス)・・が、本筋からずれるのでこのくらいにしておきます。)
 それはキッシンジャーが、「・・欧州のバランス・オブ・パワー体制は17世紀に、ローマ帝国とカトリック教会の伝統の混合からくる世界秩序の概念である普遍性への中世的熱望が最終的に崩壊することから生まれた」(Diplomacy PP56)からであり、「各国が自己中心的な利益<=国益>を追求することこそがその他全ての国々の安全と進歩に幾ばくかの貢献をすることになるという・・バランス・オブ・パワー<なる>新しいアプローチの最初のそしてもっとも包括的な形成は、欧州における最初の国民国家<(Nation State)>でもあった国・・フランス・・によって行われ・・その主たる担い手<(principal agent)>こそリシュリューであった」(同 PP58)と考えているからです。

しかし、そもそもこのようなキッシンジャーのバランス・オブ・パワー観は正しいのでしょうか。
キッシンジャー自身、リシュリューが「<オーストリアとスペインの両>ハプスブルグ家による欧州制覇を妨げようとしてして始めたこと<(=戦乱)>が、結果的にそれ以降の二世紀にわたって彼の後継者達をして<(戦乱により)>欧州におけるフランスの優越性の確立を追求せしめるというしがらみを残すことになった。そしてこれらの野心的試みが結局失敗したことが事実としてのバランス・オブ・パワーをもたらし、それが次いで国際関係を律する体制としてのバランス・オブ・パワーをもたらした」(同 PP59)と指摘していますが、戦乱による荒廃がもたらした虚脱状態を指すとも言えるバランス・オブ・パワーなる空虚な概念より、その荒廃をもたらしたすさまじい戦乱の原因にこそわれわれは目を向けるべきではないでしょうか。
第二次世界大戦の真っ直中に、大戦のもたらしつつある恐るべき荒廃のよってきたる遠因を17世紀という時代に求めた最初の人物、そしてリシュリューではなく、その背後にいたジョセフ・デュ・トロンブレー(Joseph du Tremblay)を元凶として名指しした最初の人物こそ、全体主義を批判した「すばらしい新世界(Brave New World)」の著者として有名なイギリス人作家、オルダス・ハックスレー(Aldous Huxley)です(http://www.atimes.com/atimes/Front_Page/EB11Aa01.html。2月11日アクセス)。
(続く)