太田述正コラム#0177(2003.10.26)
<宋美齢(その1)>

 (コラム#158を大幅に拡充しました。ホームページ(http://www.ohta.net)の時事コラム欄を参照してください。)

 蒋介石(Chiang Kai-shek)の夫人の宋美齢(Soong May-ling)がニューヨークの自宅でなくなりました。
享年106歳と大部分のメディアが報じていますが、それは、生年についての三つの説(1898年、1901年、1902年)のうち一番最初の説によった場合で、かつ数え年であり、本当のところははっきりしないようです。彼女のすぐ上のお姉さんの宋慶齢(Soong Ching-ling)は孫文(孫逸仙=Sun Yat-sen)の夫人で中華人民共和国(以下「中国」という)の名誉国家主席までつとめた人物ですが、このような超名門の一家でも生年がはっきりしないというところに、辛亥革命直前の支那(注1)の混乱ぶりがうかがわれます。(以上、事実関係はhttp://www.tokyo-np.co.jp/00/kok/20031025/mng_____kok_____003.shtml(10月25日アクセス)による。)

 (注1)私は「支那」は、地理的概念としての英語のChinaに対応する日本語にほかならず、蔑称ではないと考えている。

 面白いのは中華人民共和国(今回のコラムに限り、中華民国と区別するため、以下「中共」と略す)の宋美齢評価です。
中国共産党の機関誌人民日報の日本語サイトは「蒋介石氏の妻、宋美齢さんが23日午前5時17分、ニューヨークで死去した。106歳。宋さんは中国で最も影響力の強い女性として、最近まで多彩な活動を行なっていた。」と報じ(http://j.peopledaily.com.cn/2003/10/24/jp20031024_33459.html。10月25日アクセス)、また、中共の全国政治協商会議の賈慶林主席は宋美齢の親族に弔電を送り、深い哀悼の意を示すとともに、「宋美齢女史は中国近現代史上、大きな影響を与えた人物。抗日戦争に力を尽くし、国家分裂に反対したほか、大陸と台湾海峡の平和統一、中華民族の繁栄を希望していた」というコメントを発表しました(http://j.peopledaily.com.cn/2003/10/25/jp20031025_33480.html。10月26日アクセス)。
いつのまにか宋美齢は、国賊の妻から「さん」「女史」付けの偉人へと180度中共による評価が変わり、その内助の功で夫君の蒋介石自身も国賊から歴史上の重要人物へと「昇格」し、名前の後に「氏」やをつけてもらえるようになっていたようです(注2)。

(注2)26日の人民日報サイト(前掲)は、単に米国の大学の学部卒(BA)の宋美齢について、「米国で文学博士の学位を取得」と誇大報道を行うというゴマスリぶりだ。

 確かに彼女は中共に偉人扱いされるだけのことはあります。
まず蒋介石死去(1975年)以降の宋美齢の行動が、いかに賈慶林が言うところの「大陸と台湾海峡の平和統一」(前掲コメント)に資するものだったかを振り返ってみましょう。
宋美齢は、蒋介石の後継総統となった蒋経国(Chiang Ching-kuo。蒋介石の先妻の子)との軋轢でニューヨークに移住するのですが、1988年に蒋経国が死亡するとその次の中華民国総統に、憲法上の規定に基づき副総統の李登輝(Lee Teng-hui)が昇任することに反対し(注3)、また2000年の総統選挙の際には与党国民党(Kuomintang =Nationalist Party)の連戦(Lien Chan)候補を推して野党民進党(Democratic Progressive Party=DPP)の陳水扁(Chen Shui-bian)候補に反対しますが、いずれも彼女の意に反する結果に終わります(http://www.latimes.com/news/nationworld/world/la-fg-chiang25oct25,1,4653362.story?coll=la-home-leftrail(10月25日アクセス)及びhttp://www.taipeitimes.com/News/archives/2003/10/25/2003073291(10月26日アクセス)。以下も特に断らない限り、この二つの典拠による)。

 (注3)より正確には宋美齢は蒋経国の遺志に反し、自ら後継総統になろうとしたのだが、蒋家の人間が二度と総統になるべきではないとの蒋経国の遺志に忠実であろうとした国民党若手勢力にその野望をはばまれたもの。(蒋経国に敬意を表し、私は民主主義的独裁体制における親族承継の例に台湾は入れていない。)
     李登輝総統が正式に国民党主席に就任した1988年の国民党大会にあたって久方ぶりに訪台した宋美齢は、来賓としての演説の中で「私は必ず復活する(I shall arise)」と捨てゼリフを残している。

この彼女の二つの行動は、中華民国における本省人(=日本の敗戦後に中国から渡ってきた人々である「外省人」、でないもともとの台湾の住民)や台湾の「独立」を志向する勢力の伸張に反対する中共の意向に完全に合致するものでした。

それよりはるかに重要なのは彼女の蒋介石存命中の行動です。
宋美齢が、「抗日戦争に力を尽くし、国家分裂に反対した」(前掲コメント)ことによって、まさに中国共産党は窮地から救われ、結果的に支那において中国共産党による国民党からの政権奪取がもたらされたのですから。

(続く)