太田述正コラム#6258(2013.6.9)
<近世欧州の実相(その5)>(2013.9.24公開)
 (3)社会と国家
 「マルティネスは、一般住民達と兵士達双方にとってのおぞましい諸条件と諸経験を踏まえれば、当時の多くの知識人達、とりわけトーマス・ホッブス(Thomas Hobbes)(1588~1679年)が人間の本性について低い意見を抱くとともに、初期の近代戦争の暴虐的かつ強奪的な形がまさに人間性の本来的な状態であると考えたこと、は驚くべきことではない。
 近代期の我々の多くは、安全で健康で、かつ食事を十分とれているので、近世の戦争について、当時の貴族たる年代記編者達によって提供された、浪漫化された見方をそのまま受け入れている(ascribe to)ことから、今日、世界のより幸運でない諸地域において、再び血腥く残酷な「古代的な(antquated)」暴力が出現していることに衝撃を受けている。
 マルティネスの本は、従って、単に歴史に関する本であるだけでなく、我々のかくも多くが当たり前のことと考えている文明的な諸ルールの脆弱な本性を思い起こさせてくれるところの、見事に書かれ分析された本なのだ。」(C)
 「人本主義(humanism)の復活や新しくより複雑な政治学の普及が、ルネッサンスを我々の近代世界の生誕地にしたのではない。
 全くそうではないのだ。
 政治的アイデンティティの全ての装置(apparatus)は、恒常的な戦争に対応(response)するために形成された(evolve)のであり、諸国家とは、本質的に、それぞれの軍隊を賄う(pay for)ために出現した(come into being)のであり、これは、共通の言語や商業がそれをすることができるよりもはるかに前に、暗くはあっても、統合的効果(consolidating effect)をもったのだ。
 欧州の「主権」国家は、びっちりつまったバラバラの(dense scatter)中世的極小(micro)国家群や半国家群・・すなわち、ミニ王国群、統治権(lordship)群(封建的封土群)、小さい領土(principality)群、そして都市群・・の中から出現した(come out of)。
 このうち、ヴェネツィアやカペー朝(Capetian)フランス<(注13)>といった、より大きく、より進取の気性に富んだ(enterprising)ものは、隣接する「小国家群(statelets)」を、武器の力で、防衛的条約によって、或いは政治的諸要求、相続(heredity)、婚姻の諸儀式を通して、吸収して行った。
 (注13)「中世フランス王国の王朝。987年から1328年まで続いた。西フランク王国のカロリング朝の姻戚関係にあり、カロリング朝が断絶したあと、987年に西フランク王ロベール1世(ロベール朝)の孫にあたるパリ伯ユーグ・カペーがフランス王に選ばれて成立した。成立当初は権力基盤が非常に弱くパリ周辺を抑えるのみであったが、フィリップ2世やフィリップ4世の時代に王権を拡大させイングランドやローマ教皇の勢力に対しても優位に立った。1328年まで14代の王が続き、また後のヴァロワ朝やブルボン朝、オルレアン朝に至るまでフランスの歴代の王朝はみなカペー家の分族から出た。現在のスペイン王家(スペイン・ブルボン家)の祖先で<もある。>」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%9A%E3%83%BC%E6%9C%9D
 それは、奪取(seizure)と獲得(acquisition)のプロセスであり、14世紀から16世紀にかけて、近代国家の漸次的形成(ascent)をもたらしたのだ。」(D)
3 終わりに
 これまで何度か申し上げてきたことではありますが、今回、近代主権国家なるものは、近世の西欧において、戦争を行うための領域的団体として生まれたものであることを、初めて、具体的な典拠をもとにご説明することができました。
 しかし、このシリーズの中に、イギリスが殆んど登場しなかったことに改めて注意を喚起したいと思います。
 それもそのはずです。
 イギリスや(イギリスを含む)ブリテン諸島でこの時期の戦争の頻度や規模が西欧に比べて小さかったから、ということもありますが、そもそも、イギリスにおいては、近代国家が、戦争を行うためというよりは、コモンローの維持運用のため、そして民生を維持向上させるために、アングロサクソン文明が誕生した時以来、既に存在していたからです。
 アングロサクソンの生業が軍事であるというのに、どうしてこれほど、西欧とイギリスとは異なった国家史を持ったのでしょうか。
 そもそも、両者が文明を異にするからだ、ではいくらなんでも乱暴すぎます。
 私なりに説明すると、こういうことなのではないでしょうか。
 イギリスでは「共通の言語や商業」が、アングロサクソン文明が成立した時点・・個人主義(=資本主義)文化を持ったアングル、サクソン、ジュート人が大ブリテン島東南部に渡来し、人口的に圧倒的多数を占めていた、原住民のブリトン人が積極的にアングル人らの文化に同化するとともに、アングル人らがブリトン人が既に採用していたところの、ベルガエ人由来の原英語を採用した時点・・において、既に統合化的効果を発揮し、近代国家が成立した、と。
 しかも、ウェールズは比較的早期にイギリスによって征服され、スコットランドは人口的にも経済的にもイギリスに抵抗はできても、イギリスを征服する力はなく、また、西欧の「極小(micro)国家群や半国家群」はもとより、英「仏」百年戦争の結果、イギリスに対抗して西欧で初めて生まれた近代国家たるフランスでさえ、恒常的な西欧内での戦争への対処に追われていたこともあって海を渡ってイギリスを征服することは容易ではなかったために、イギリスは心置きなく、海を越えたアイルランドや西欧に生業たる戦争をしかけ、掠奪してくることができた、というわけです。
 (百年戦争のはるか前の11世紀に、一度だけイギリスは西欧勢力に恒久的に征服されますが、幸いなことに、その勢力は、文化的にアングル人らと極めて近いノルマン人であったので、アングロサクソン文明は欧州文明化することを免れ、今日に至っていることはご承知のとおりです。)
 その英国は、西欧に近代国家群が出現し始めるや、そのうちの特定の国家が大きくなり過ぎないよう、とりわけ、全西欧を統一するようなことのないよう、バランサーとして西欧の恒常的な戦争に直接的間接的に干渉するようになり、ついに今日に至るまで、西欧は統一されないまま推移することになります。
 (後にイギリスが、ブリテン諸島を統一して英国となり、更に、西欧諸国に比べて先進的な政治経済体制をひっさげ、安上がりですんだ陸軍経費を海軍経費に回すこと等により、全球的な大英帝国へと発展してからも、近傍の西欧での強国出現に対する不必要なまでの警戒心を抱き続けたことが、むしろ、大英帝国の衰亡、瓦解を早めてしまうという皮肉な結果をもたらしたことも我々は知っています。)
ところで、こういう次第で、イギリスの国家は戦争を行うためのものではないことから、戦争(次第に有事一般へと拡大されて行った)に際しては、平時と異なった体制に臨時に、ないしは当該戦争の継続期間中、移行する必要がある、という点で西欧諸国とは異なります。
 戦国時代の日本の大名達の分国制度は恒常的戦争を行うためのものであり、そういう意味では西欧の国家に似ていたけれど、それ以前も、また江戸時代も、そして戦後も、国家は平時のためのものでした。明治維新後の日本帝国は、本来は西欧諸国の近代国家体制を継受すべきところ、基本的にイギリスの国家体制を継受したことから、本格的な戦争に際して、体制移行をしなければならないという「欠陥」を抱えており、憲法の存在しないイギリスから、この部分までは十分継受できていなかったため、戦間期において、移行に大変苦労したことはむべなるかなでした。
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<補注>
 西欧諸国は、やがて、先進国であるイギリスから、争って国家体制を含む政治経済体制を翻案的に輸入して行きます。
 これは、一つには、国家が戦争を行うために社会から収奪し過ぎると、中長期的には戦争を行えなくなってしまうことを自覚するに至ったからでもあります。
 議会主権抜きの議会制の輸入もそうであり、後の、(英コモンローに由来する)人権規定を盛り込んだ憲法の制定もそうですが、中央銀行制度の導入もそうでした。
 下掲のコラム(書評)は、例によって欧州(西欧)とイギリスとを一まとめにして論じているけれど、実質的に、私のこのような指摘を裏付けるものです。
 「13、14世紀の欧州では、王侯達が大部分の権力を握っていたが、彼らは戦争の資金を得るために貨幣を改鋳してその質を落とすことでその権力を濫用した。
 しかし中世末、商人達は反撃に転じた。
 国際的な金融家達(financiers)の国際網は、次第に、自分達自身の私的通貨を創造するに至ったのだ。
 すなわち、借用証書(IOU)類ないし為替手形(bill of exchange)類<の創造>であり、これらによって、彼らは君主達の通貨を完全に放棄することが可能となった。
 こうして、現在と同様、国際銀行家達は、諸政府がカネを使いすぎていると思ったら、「通貨放棄(run on the currency)」の引き金を引くことができるようになった。
 競争相手たるこの二種類の通貨の間の「ゲリラ戦争」はしばらく続いたが、1694年にイギリス銀行(Bank of England)が創設されたことで決着した・・・。
 このイギリス銀行は、政府と民間の共同経営体(public-private partnership)であり、強力な商人達は、国家によって発行されるカネの管理に対して発言権を与えられるのと引き換えに、この通貨を彼らのローンによって支えることとされた。
 この「偉大なる通貨決着(Great Monetary Settlement)」は、近代金融制度の基盤となった。」
http://www.guardian.co.uk/books/2013/jun/05/money-unauthorised-biography-martin-review
(6月6日アクセス)
(完)