太田述正コラム#0208(2003.12.16)
<ニール・ファーガソン(その2)>

3 Imperial Understretch

(自由、民主主義及び法の支配を信奉する)覇権国たるかつての英国を没落させ、(やはり自由、民主主義及び法の支配を信奉する)現在の米国を没落させる恐れのあるものは、ポール・ケネディのいうimperial overstretch というよりは、imperial understretch だ。
 しかも、この両覇権国のoverstretchよりunderstretchの方が世界にはるかに迷惑をかけた。第一次世界大戦は英国がunderstretchしていたため、ドイツの欧州制覇の野望を抑止することができずに起こったし、第二次世界大戦は米国がunderstretchしていたために起こった。(キンドルバーガーはかつて、英国が覇権国ではなくなったにもかかわらず、米国は保護主義的孤立主義的姿勢を堅持して英国の衣鉢を継がず、ために世界は不安定化し、第二次世界大戦に至ったと指摘した。)
 英国没落のプロセスを振り返ってみよう。
Understretchしていた(注1)ため、英国がドイツの抑止に失敗した以上、英国は第一次世界大戦に参戦しドイツと戦うべきではなかった。天文学的なカネと人命を費やし、そのために覇権国の座を失った英国が、見返りとして得たものと言えば、ドイツを中心とする欧州統合を20世紀末まで遅らせただけだった。覇権を失った英帝国が崩壊するのは第二次世界大戦によってだが、これはドイツを(、その時点ではunderstretchしていた米国の参戦は到底ありなかったとはいえ、)フランスの協力さえ得られれば、叩くことができた揺籃期のナチスドイツを叩かなかった英帝国の自業自得だ。
(以上、http://www.robertfulford.com/NiallFerguson1??3.htmlによる。) 

(注1)ポール・ケネディは、第一次世界大戦前の英国はoverstretchしていたとするが、この指摘は、彼自身の別のところでの指摘・・英帝国の帝国的負担の軽さ・・と矛盾している。英国のoverstretchは、第一次世界大戦の結果として生じた(http://www.foreignaffairs.org/20030901fareviewessay82512/niall-ferguson/hegemony-or-empire.html)。

4 良い宗主国・悪い宗主国

 現在の世銀やIMFの発展途上国向け処方箋である、自由貿易、開放経済、自由な資本流通、国際投資の受け入れ、法の支配、均衡予算、貨幣の健全性、清廉な行政、は英帝国がビクトリア期において、その世界の四分の一に及ぶ領域にもたらしたものと同じだ。
 当時、英本国側から見れば、英植民地にカネを貸せば焦げ付く心配がなかったし、英植民地側から見れば、英本国の世界一大きい金融市場から低い利子でカネを調達することができた。そのカネで植民地ではインフラ整備が進んだ。
欧州列強は自分の文化と宗教を植民地に押し付ける一方で、あたかも海賊のように植民地の収奪に勤しんだ(http://books.guardian.co.uk/digestedread/story/0,6550,881030,00.html)。そして植民地のカネを本国に吸い上げるばかりで、植民地でのインフラ整備は(特にアフリカでは)殆ど行わなかった。
 18世紀末に、一番最初に奴隷制を廃止した植民地宗主国も英国だ。しかも英国は、奴隷制廃止を決めるや、シエラレオネ沖に海軍艦艇を派遣し、熱心に大西洋を行きかう奴隷貿易船の摘発に取り組んだ(http://archive.salon.com/books/feature/2003/04/17/ferguson/index1??2.html)。
確かに18世紀においては英国も欧州諸国のように植民地を収奪したが、これを補って余りあるだけ19世紀及び20世紀における英国の植民地への貢献は大きい(注2)。独立後、英国の旧植民諸国の経済等のパーフォーマンスが格段に低下したところからも英国による統治の卓越振りが分かる。

(注2)ただし、欧州諸国同様、英国も19世紀や20世紀に何度も原住民の虐殺を行っている。例えば1898年には、スーダンでゴードン将軍が殺されたことへの復讐として、沙漠の部族民1万名が射殺されている(アーカイブ・サロン前掲)。

 すなわち、欧州列強と比べて、はるかにマシな植民地統治を行ったのが英国だ。
 また、英帝国をその他の帝国と比べても同じことが言える。インドはムガール帝国の下にあった時期よりも、英帝国の下にあった時期の方が良い統治を受けた。
このインド亜大陸を例にとろう。
1850年以降の英帝国のインド亜大陸統治は実にリベラルなものだった。英語という共通語を与えたことはさておき、自由企業経済の確立、婦人の保護、嬰児殺しの禁止、そして最終的には代議制民主主義の導入がその成果だ(http://www.guardian.co.uk/uk_news/story/0,3604,968406,00.html)。
インドのナショナリズムだって英国製だ。そもそも、(インド)国民会議(派)はイギリス人が創設した。この国民会議に、イギリス化したインド人達が自らのアイデンティティーを見出して結集したわけだ(注3)。

(注3)英国も最初は自分の文化をインド亜大陸に押し付けようとしたが、1857年のセポイの反乱以後、それを改め、爾後この数億人の人口を持つインド亜大陸を、わずか千名の英国人行政官と八万名の英軍人で統治した。1883年にインド人の裁判官に白人の被告を裁くことを認めたことは、英国のインド亜大陸統治の何たるかを象徴している(アーカイブ・サロン前掲)。

 英帝国が崩壊したのは、チャーチルが20世紀における最も熱烈なる帝国主義者であったにもかかわらず、世界史上例を見ないの悪の帝国であった(ホロコーストの)ドイツと(南京大虐殺の)日本を叩き潰して世界を救うことが、英帝国を維持することよりも大事だと考えて、(ナチスドイツには英国と戦う意思がなかったにもかかわらず)まず1940年にドイツに、次いで日本に戦いを挑んだからだ(以上の()内はアーカイブ・サロン前掲)。(チャーチルにとって無念だったのは、戦間期において米国にいまだ覇権国としての自覚がなかっただけでなく、覇権を失った英国のリーダー達も覇気を失っており、米英が連携してドイツと日本にもっと早い時点で軍事介入して体制変革することができなかったことことだろう(ロバート・フルフォード前掲)。)

(続く)