太田述正コラム#0258(2004.2.13)
<南京事件と米国の原罪(その5)>

結局、先の大戦中の、
・ナチスドイツによるユダヤ系ドイツ人とドイツ占領地ないし欧州の枢軸国在住のユダヤ人の強制収容所送りと虐殺、それと、
・米国による日系人のみを対象にした強制収容所への収容、並びに東京等日本の大都会への戦略爆撃や広島・長崎への原爆の投下
は、どちらも「戦前」の米国の優生学に由来する同根の蛮行であったということになります。
ナチスドイツに比べて「戦前」の米国により理性が残っていたおかげで日系人は虐殺されることはありませんでしたし、日本が「早期」に降伏したため結果的に爆撃による日本人の虐殺数がユダヤ人の虐殺数の数分の一にとどまったこと、は幸運でした(注4)。

(注4)「戦前」の米国がいかに狂っていたかを物語るもう一つのエピソードが、禁酒法の施行だ。
米国のいわゆる禁酒法とは合衆国憲法修正第18条のことだが、1919年にこの条項を加える憲法改正が成立し、翌1920年の1月から1933年の12月に当該条項が削除されるまでの間施行された。(ちなみに、禁酒法によって禁止されたのは、飲料用アルコールの製造・販売・運搬等であり、飲酒そのものは禁止されなかった。)
禁酒法制定の背景としては、1840年代後半に始まるアイルランドやドイツなどからの移民の増大があった。多くがカトリックであった彼らの飲酒量の多さや飲酒癖の悪さに対して、アングロサクソンを中心とするプロテスタントたる原住民の反発が高まって行った。
そして、禁酒法制定の直接の動機としては一般に、ア 禁酒法支持議員の協力を得て第一次世界大戦への参戦の議会承認を得るため、イ 戦時の穀物不足を予防するため、更には、ウ 酒造・酒販業界を牛耳るドイツ系への反発、の三つが挙げられている。
(以上、http://homepage1.nifty.com/y_nakahara/hammett3.html及びhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%81%E9%85%92%E6%B3%95(どちらも2月12日アクセス)による。)
飲酒法制定の背景や直接的契機の ア と ウ は、要するにドイツ人等に対する人種差別意識が禁酒法制定の大きな原因であったことを示している。
先の大戦が始まった頃までには、(アイルランド系はもとより、)ドイツ系米国人に対する差別意識は解消されていた。(イタリア系やユダヤ系に対する差別意識とその「解消」については、別の機会に論じたい。)

 (4)第一の原罪から第二の原罪へ
 南北戦争(1861??1865年)は、奴隷制という米国の第一の原罪を贖うための戦争でした。
 米国の南部諸州が、新たに米国の州となるカンサス州等に奴隷制の導入を図り、それがだめでも中南米諸国を征服し、そこで奴隷制の普及、継続を図ろうとしたことに北部諸州を代表するアブラハム・リンカーン大統領が断固異を唱えたため、やむなく米国から分離しようとした南部諸州に対し、大統領はこれを許さず戦争を始め、南部諸州の従軍者の40%を戦病死させて最終的に南部諸州を無条件降伏に追い込んだ、というのが南北戦争の実相です(注5)。

(注5)http://www.atimes.com/atimes/Front_Page/FB10Aa03.html(2月10日アクセス)による。
    なおこの論考は、Gary W Gallagher ,The Confederate War, Cambridge,1997を引用しつつ、南部諸州の白人の8??9割は奴隷所有者ではなかったが、その彼らをして南北戦争に従軍せしめた動機は、新しい州で奴隷所有者となる夢だったとしている。なお、「中南米」云々の典拠としては、Robert E. May,The Southern Dream of a Caribbean Empire,1973 があげられている。

 日本人である私としては、リンカーンを始めとする北部諸州の人々が、理念のためだけにここまで凄惨な戦争を戦ったことに恐怖心すら覚えます。
 しかしこの戦争の結果、米国で奴隷制こそ廃止されたものの、南部諸州はもとより、北部諸州においても、白人、就中アングロサクソンの黒人に対する差別がなくなったわけではありませんでした。
 後に優生学なる疑似科学が生まれ、米国の白人が抱く黒人等に対する差別意識を正当化しようとしたことは、しごく当然のことだったと言えるのかもしれません。

 それにしても、優生学が生まれるきっかけとなったのは、一体何だったのでしょうか。
 1901年9月に起こったウィリアム・マッキンレー米大統領の一アナーキストによる暗殺が米国史の転機となった、と指摘するのがカリフォルニア大学デービス校のエリック・ローチュウェイ(Eric Rauchway)歴史学準教授です。
 彼の見解に沿って、それに適宜私の補足を交えつつ、20世紀前半の米国の歩みを振り返って見ましょう。
 マッキンレーの後任のセオドア・ローズベルト米大統領は、その頃、欧州において、フランス大統領、イタリア王及び王妃、オーストリア皇后が、やはり相次いでアナーキストによって暗殺された(Hugh Brogan, The Pelican History of the United States of America, Penguin Books Ltd., 1987 (originally 1985) P.461-462)ことにも鑑み、アナーキズムとの戦いを宣言し、1903年には、アナーキストの米国への移民を禁止する法律が制定されます。
 米国の極度に内向きの時代がここに幕を開けます。
 そして、時を同じくして米国で優生学が呱々の声をあげます。
 1917年の、皮膚の色によって米国への移民を制限する法律の成立(コラム#254)は、このような米国内の動向の論理的帰結でした。
 このような時代背景を考えれば、ドイツの無制限潜水艦戦発動に伴う米国の民間船舶への被害をとがめて米国を第一次世界大戦に参戦させたウッドロー・ウィルソン米大統領が、戦後、自らが提唱し、1920年に発足した国際連盟への加盟を議会の反対で断念せざるをえなくなったのは、当然のことでした。
 実は、「理想主義的国際主義者」、ウィルソン大統領は、好ましからざる移民の強制追放措置を開始した人物でもあります。
 この頃から始まった米国の、東アジアに対する恣意的介入も、この時代背景を抜きにして理解することはできません。(私見)
 米国は、黄色人種に対する差別意識に基づき、人種的に劣った悪い日本人が、同じく人種的に劣った良い中国人等を苛めているので中国人等を保護しなければならない、という観念に囚われ、その悪い日本人に同じアングロサクソンの英国が手を貸している日英同盟を廃棄させるべく、ワシントン体制の構築を提唱し、無理やり日英等にこれを飲ませます(注6)。(私見)

 (注6) 1921年米国は海軍の軍備縮小と太平洋および極東問題を審議するための国際会議を招集した(ワシントン会議)。アメリカの目的は、軍縮協定により米・英・日の建艦競走を終わらせ自国の財政負担を軽減させると同時に、東アジアにおける日本の膨張を抑制することにあった。会議では、太平洋諸島に関する米・英・仏・日の四カ国条約が締結され、これによって米国は日英に日英同盟の破棄に同意させた。
翌1922年にはこの4カ国に伊・中など5カ国を加えた九カ国条約が結ばれ、中国の領土と主権の尊重、中国における各国の経済上の機会均等などが約束された。さらに同年、米・英・仏・伊・日の5カ国の間で海軍軍縮条約が結ばれ、米英各5、日3、仏伊各1.67の主力艦保有比率が定められた。国内では海軍、特に軍令部で米英7割が主張されたが、海軍大臣で全権の加藤友三郎が海軍内の不満をおさえて調印にふみきった。
また同じ1922年に日中間で、山東半島の旧ドイツ権益を中国へ返還する条約が結ばれた。
この一連の国際協定は、世界平和と太平洋・東アジア地域における列国間の協調をめざしたもので、この新しい国際秩序はワシントン体制と呼ばれた。
http://home.r05.itscom.net/hiro-1/nihon/kindaigendai/008.htm。4月13日アクセス)

 このワシントン体制なるものが、日本人に対する差別意識に基づき、日本を叩き潰すための道具に他ならなかったことは、せっかく国際協調路線という旗印の下で、ワシントン体制を遵守しようとする勢力が日本政府の主流となったというのに、提唱主である肝心の米国がその後、ナショナリズムを口実にしてワシントン体制を突き崩そうとする中国の民主主義的独裁勢力と野合してワシントン体制が瓦解するのにまかせ、日本を孤立させ、追い詰めて行ったことが如実に物語っています(私見。拙著「防衛庁再生宣言」第九章参照)。

その間、米国内はどうなって行ったのでしょうか。
移民に対する取締りやテロ対策の強化にもかかわらず、1919年には移民当局に対し二度の爆弾テロ事件が起こり、1920年にはウォール街において爆弾テロ事件が起こります。
 そのため、米国民のヒステリー状況はいよいよ亢進し、移民の制限だけではなく、貿易も制限されることとなり、最後は米国民は自国の制度に対する信頼を失い、あげくの果てに米国は1929年の大恐慌を迎えるに至るのです。

 米国は19世紀末には既に経済覇権国になっており、とりわけ第一次世界大戦後には完全に英国に代わって事実上の覇権国となっていました。
その米国の、このような人種差別的にして鎖国的な無責任極まる逸脱行動こそ、東アジアの秩序を崩壊させ、世界に経済恐慌を引き起こし、優生学の影響とあいまってドイツを逸脱行動へと追いやり、世界に民主主義独裁の惨禍をもたらし、先の大戦を引き起こし、かつ戦後の冷戦を招来した元凶なのです。(私見)
 (以上、ローチュウェイの見解については、http://news.ft.com/servlet/ContentServer?pagename=FT.com/StoryFT/FullStory&c=StoryFT&cid=1042490938993&p=1012571727085(2003年1月20日アクセス)による。)

(続く)