太田述正コラム#7818(2015.7.30)
<英東インド会社(その2)>(2015.11.14公開)
 (2)英東インド会社の設立
 「・・・1599年9月24日、80人の商人達と冒険家達がロンドンのシティーのファウンダーズ・ホール(Founders Hall)<(注4)>に集まり、女王のエリザベス1世に会社を始めるべく請願を行うことに合意した。
 (注4)1531年建設。ロンドン大火で焼失し、建て直される。1845年にまた建て直され、1854年までテレグラフ紙が使用。1877年に再度建て直される。
http://www.london-footprints.co.uk/artliveryhalls.htm
 「ロンドン大火(・・・The Great Fire of London)とは1666年にロンドンで起こった大火のこと。これによって中世都市ロンドンは焼失し、木造建築の禁止などからなる建築規制やセント・ポール大聖堂をはじめとする教会堂の復興が行われた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%B3%E5%A4%A7%E7%81%AB
 1年後、総裁(Governor)と商人達、総勢218人の人々からなる集団たる、この東インドにおいて交易を行う会社、が勅許状を得、「東における交易」の15年間の独占が認められた。
 この勅許状は、当時としては根本的に新しいビジネスのタイプの設立を承認していた。
 この会社は、当時まで地球の大部分において規範であったところの家族の合名会社(partnership)ではなく、どれだけの数の投資家達にも公開市場で売買可能な諸株式を発行することができた。
 このメカニズムは、資本のはるかに大きな額を調達することが可能だ。
 <ちなみに、イギリス>最初の株式会社(joint stock company)はモスクワ会社(Muscovy Company<(注5)>だった。
 (注5)メアリー1世が勅許状を与え、モスクワ大公国との交易の独占を認めた。
https://en.wikipedia.org/wiki/Muscovy_Company
 「<モスクワ会社等の>初期のジョイント・ストック・カンパニーでは、株主は無限責任を負っていた。この点において、ジョイント・ストック・カンパニーは、株式会社とは本質的に異なり、「カムパニー的外枠の中に押込まれた、ないしはその土台の上に築かれたパートナーシップ制、あるいはかかるものとしての特殊イギリス的な会社形態」であるという指摘がされている。ここでいう「無限責任」とは、直接的な人的無限責任ではなく、会社が全出資者に対して出資額に比例した「徴収」を行うことで、全出資者が出資額を超えた責任を負うことを意味する。・・・
 東インド会社で初めて株主の有限責任制が採用された」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%B3%E3%83%91%E3%83%8B%E3%83%BC#.E3.82.A4.E3.82.AE.E3.83.AA.E3.82.B9.E3.81.AE.E3.82.B8.E3.83.A7.E3.82.A4.E3.83.B3.E3.83.88.E3.83.BB.E3.82.B9.E3.83.88.E3.83.83.E3.82.AF.E3.83.BB.E3.82.AB.E3.83.B3.E3.83.91.E3.83.8B.E3.83.BC
 この会社は1555年に勅許状を授与された。
 東インド会社(EIC)は、その44年後に設立された。
 この勅許状には、EICが海外領土を保有することに関する言及はなかったが、それは、この会社が、必要な場合、「戦争を遂行する」権利を付与していた。・・・」(A)
 (3)英東インド会社の発展
 「・・・東インド会社の急速な興隆は、18世紀の間の、ムガール帝国の大災厄的に急速な衰亡によって可能となった。
 クライヴ(Clive)<(コラム#1847、7642)>がまだ14歳であった、1739年時点においても、ムガール帝国は、依然として、カブールからマドラスにわたるところの、巨大な帝国を統治していた。
 しかし、その年に、ペルシャの冒険家のナーディル・シャー(Nadir Shah)<(注6)>が、騎兵150,000人と共に、カイバル峠(Khyber Pass)を降りてきて、150万人のムガール帝国兵を敗北させた。
 (注6)1688~1747年。ペルシャのアブシャール朝初代シャー:1736~47年。「サファヴィー朝の・・・タフマースブ2世がオスマン帝国との戦いに敗れると、<その重臣の>ナーディル・・・はアルメニア、グルジアを割譲してオスマン帝国と和睦する一方、タフマースブ2世をホラーサーンへ追放。タフマースブ2世の8ヵ月の子・アッバース3世を擁立してその摂政となった。1735年にはロシアと反オスマン帝国であるギャンジャ条約を結んだ。1736年、アッバース3世を退位させて、自らがシャーとして即位。ナーディル・シャーを名乗り、アフシャール朝を開いた。ナーディル・シャーは勢力拡大を目指して、1733年のバグダード攻囲以降、西方で活動してオスマン帝国に奪われた領域をほぼ確保する。1738年には東方に転じ、カンダハール(・・・Siege of Kandahar)、ガズニ、カーボル<(カブール)>、ラーホール<(ラホール)>と進撃を続た。翌1739年には、カルナールの戦いでムガル帝国の大軍を破ってデリーを占領した。この過程でパシュトゥーン人ドゥッラーニー部族の武力とインドの巨大な富を得て、2年後の1741年にはイラン方面に転じ、まず北方で・・・ウズベクを撃破、さらに海軍の整備に着手して1742年にバフライン<(バーレーン)>、1743年にはオマーンを占領した・・・<こうして、>きわめて短い期間だがアナトリア東部からイラン、中央アジア、インドにおよぶ広大な領域を支配下に入れた。・・・
 ナーディル・シャーはスン<ニ>派であり、サファヴィー朝期にシーア化した住民をスン<ニ>派に立ち戻らせようとし、強制改宗があったとする史料もある」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%83%BC%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%BC
 3か月後に、ナーディル・シャーはムガール帝国がそれ自身の200年間の征服によって大量に集めた諸宝から選んだものを、ペルシャに持ち帰った。
 当時の通貨で8,750万ポンドと推定される価値のあるところの、シャー・ジャハーン(Shah Jahan)の見事な孔雀の玉座(Peacock Crown)<(注7)>、コ・イ・ヌール(Koh-i-Noor)<(注8)>・・世界最大のダイヤモンド・・、及び、それと「姉妹」であるところの、ダルヤーイェ・ヌール(Darya-e Noor)<(注9)>、そして、「百頭の象群、4000匹の駱駝群、そして、その全てに、金、銀、及び、高価な宝石群、を積んだ荷車群」等の諸富の一団(caravan)の形で・・。
 (注7)「シャー・ジャハーンのために製作されたもので、・・・ナーディル・シャーが1747年に暗殺されると、それによって起こった混乱のなかでオリジナルの孔雀の玉座は失われた。しかしながら、のちに<その複製品が>イランの玉座は孔雀の玉座と称されるようになる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%94%E9%9B%80%E3%81%AE%E7%8E%89%E5%BA%A7
 絵。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%94%E9%9B%80%E3%81%AE%E7%8E%89%E5%BA%A7#/media/File:Shah_Jahan_on_The_Peacock_Throne.jpg
 (注8)コーヒ・ヌールとも。「かつては世界最大のダイヤモンドと呼ばれ、・・・シャー・ジャハーン、アフシャール朝のナーディル・シャー、ドゥッラーニー朝アフガニスタンのアフマド・シャー・アブダーリー、パンジャーブのマハーラージャ、ランジート・シングらの手を経る。1849年3月2日にパンジャーブがインド帝国の支配下に入り、その女帝であるヴィクトリア女王に献上された。・・・現在はロンドン塔で展示されている。大きさは105カラット(21.6g)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%BB%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%83%8C%E3%83%BC%E3%83%AB
 (注9)「世界最大のダイヤモンドの1つで182カラット(36.4g)。・・・ダリヤーイェ・ヌールとも・・・ナーディル・シャーによってイランへ運ばれ、・・・それ以降現在に至るまでイランにある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%83%AB%E3%83%A4%E3%83%BC%E3%82%A4%E3%82%A7%E3%83%BB%E3%83%8C%E3%83%BC%E3%83%AB
 この獲物(haul)は、後に、辺境州たるベンガルからクライヴによって抽出されるものよりも何倍も価値の高いものだった。
 ナーディル・シャーによるムガール帝国権力の破壊、及び、彼による、同帝国の財政を支えていた諸資金の除去は、直ちに、この帝国の分解(disintegration)へと導いた。・・・」(A)
(続く)