太田述正コラム#8330(2016.4.11)
<一財務官僚の先の大戦観(その2)>(2016.8.12公開)
 「インドからの援蒋ルートを遮断しようとして昭和19<(1944)>年3月に始めたインパール作戦は大失敗、4月に始めた大陸打通作戦も満州の精鋭41万を中国大陸に異動した結果、終戦時のソ連による満州侵攻を助けることになるといった有様であった。」(18)
⇒松元が、大蔵省/財務省で主計局の主査、主計官、総務課長、主計局次長を務める(奥付)という、主流の主計局畑を歩めたことがにわかに信じ難いほど杜撰な記述です。
 もともと、財務省の部内誌に連載したものを下敷きとして上梓した本を改訂してこの本が出来た(293)というのですから、気楽に書き綴ったものなのでしょうが、誤りだらけの内容を、加藤教授を含め、誰も注意しなかったらしいことも驚きです。 
 以下、私の批判です。
一、インパール作戦(1944年3月8日~7月3日)について
 この作戦の意義については、既に過去に取り上げていますが、復習も兼ね、改めて記しておきます。
 下掲から、この作戦は、「インドからの援蒋ルートを遮断しようとして」行われたものではない、というか、少なくともそれを主目的として行われたものではないことは明らかであり、表向きはビルマ防衛のため、そして、ホンネはインド独立のきっかけとなることを期し、行われたものであると言っていいでしょう。↓
 「インドへの侵攻作戦という構想は、ビルマ攻略戦が予想外に早く終わった直後から存在した。インド北東部アッサム地方に位置し、ビルマから近いインパールは、インドに駐留するイギリス軍の主要拠点であった。ビルマ-インド間の要衝にあって、連合国から中国への主要な補給路(援蒋ルート)であり、ここを攻略すれば中国軍(国民党軍)を著しく弱体化できると考えられた。・・・しかし、二十一号作戦の主力に予定された第15軍及び第18師団(師団長:牟田口廉也中将)はこの計画に反対した。現地部隊は、雨季の補給の困難を訴えた。乾季であっても、山岳や河川による交通障害、人口希薄地帯ゆえの徴発の困難などが予想されると主張した。・・・
 <ところが、>第15軍司令官となった牟田口は、従来の単純な守勢から攻勢防御によるビルマ防衛への方針転換、つまり、イギリス軍の反攻拠点であるインパールを攻略し、さらにインドのアッサム州へと進攻するという計画を強く主張するようになった。・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%91%E3%83%BC%E3%83%AB%E4%BD%9C%E6%88%A6
 「<牟田口の上司であったビルマ方面軍司令官の>河辺中将は日本軍によるインド侵攻のためのインパール作戦の作戦の指揮を執ることになるが、「チャンドラ・ボースの壮図を見殺しにできぬ苦慮が、正純な戦略的判断を混濁させたのである」と、作戦実行の背景にボースに対する日本軍側の「情」があったとしている。ボースは国民軍をインパール作戦に参加させるようたびたび要求し、日本側を困惑させた。6月にはすでに作戦の失敗は明らかであったが、河辺中将は「この作戦には、日印両国の運命がかかっている。一兵一馬でも注ぎ込んで、牟田口(牟田口廉也第15軍司令官)を押してやろう。そして、チャンドラ・ボースと心中するのだ。」と考えていた。インパール侵攻の失敗により、インド国民軍はその後、主にビルマで連合軍と戦った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%90%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%A9%E3%83%BB%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%82%B9
 <東條首相・参謀総長の意向を踏まえて、ビルマ方面軍・第15軍がこの作戦を行った、と断言していいでしょう。↓>
 「<チャンドラ・ボースは、1943年>6月10日には東條英機首相と会談、東條首相は16日の議会に<彼>を招いて世界中を驚かせた。ボースは壇上のマイクを通して全世界のインド人へ呼びかけた。「なつかしき同胞達よ、私は今、日本の東京にいる。東條首相は議会においてインド独立の為にあらゆる協力<を>する事を言明した。・・・」」
http://www.asahi-net.or.jp/~un3k-mn/asia-indo.htm
 「<1944年>2月21日には、国務と統帥の一致・強化を唱えて杉山元に総長勇退を求め、自ら参謀総長に就任する。<(~7月18日、東條内閣総辞職。)>
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E6%A2%9D%E8%8B%B1%E6%A9%9F
 そして、上述したホンネの作戦目的は、終戦からわずかに(、そして、ちょうど、)2年目の1947年8月14~15日におけるインド・パキスタン分離独立
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%91%E3%82%AD%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%B3%E5%88%86%E9%9B%A2%E7%8B%AC%E7%AB%8B
という形で達成されるのです。
二、大陸打通作戦(1944年4月17日~12月10日)について
 この作戦のために「満州の精鋭41万を中国大陸に異動した」という箇所ですが、松元、気でも触れたのでしょうか。
 下掲のような次第であって、この作戦の際のみならず、そもそも、関東軍が支那派遣軍に戦力を提供したという事実は一切ありません。↓
 「当時、日本軍は太平洋方面での防衛体制構築のため、中国戦線から部隊を抽出しつつあり、支那派遣軍(司令官:畑俊六大将)は太平洋戦争開始時の兵力90万人以上から62万人へと減少していた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%99%B8%E6%89%93%E9%80%9A%E4%BD%9C%E6%88%A6
 「太平洋戦争の戦況が悪化した1943年以降、重点は東南アジア(南方方面)に移り関東軍は戦力を抽出・転用され、また日ソ中立条約によりソ連軍との戦闘がなかったため関東軍も進んで戦力を提供した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E6%9D%B1%E8%BB%8D
 関東軍と大陸打通作戦の関係と言えば、わずかに、この作戦の「事前の準備として京漢鉄道の黄河鉄橋の修復が1943年末から開始され、関東軍の備蓄資材などを利用して1944年3月末までに開通した」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%99%B8%E6%89%93%E9%80%9A%E4%BD%9C%E6%88%A6 前掲
ことだけです。
 さて、この作戦の日本軍による勝利が、戦後の東アジア史の基本を決定づけたことを、我々は忘れてはならないでしょう。↓
 「米国大統領フランクリン・<ロ>ーズベルトは開戦以来一貫して蒋介石を強く信頼し支持し、カイロ会談の際に蒋介石を日本との単独講和で連合国から脱落しないように対日戦争で激励し期待をかけたが、本作戦により蒋介石の戦線が総崩れになった事でその考え方を改めたという。<ロ>ーズベルトの配下のジョージ・マーシャル陸軍参謀総長やジョセフ・スティルウェル将軍が、かねてより主張してきたとおり、実は蒋介石の軍隊は軍隊の体をなしていない士気の沮喪したどうしようもない腐敗した組織であり、とても<米国>とともに戦う意欲もなければ能力もないことが明らかになったのだという。その結果、<ロ>ーズベルト大統領は対日作戦のシナリオを、従来の<支那>大陸の航空基地から日本などを爆撃するというものから、太平洋の島々を逐次占領していくものに転換した。そしてもうひとつ重要な点は、それまで蒋介石とその一派にのみそそがれ続けていた<米国>の目を、<支那>のもう一つの勢力、毛沢東指揮下の中国共産党軍に向けさせる効果をもったことである。
 この大陸打通作戦の最大の目的は、<支那>西南地区に設置された<米>陸軍航空軍基地群を占領する事だった。日本は<支那>戦線の制空権を完全に奪われていた。<支那>の基地から出発したB29爆撃機は九州、山陰、朝鮮を爆撃していた。満足な装備を持たない日本軍がこの作戦に成功した要因は国民党軍が戦わなかったからである。桂州、柳州では在華米軍基地を日本軍に明け渡した。7月<ロ>ーズベルトは蒋介石に書簡を送り、在華米軍、国民党軍、共産軍を統合した最高指揮官にスティルウェル将軍を任命するよう提案したが、蒋介石はこれを拒絶している。スティルウェルはその日記に次のように記述している。
“ 蒋介石は自分に補給される軍需品をためておき、日本軍の退去につれ、共産主義者の地域を占拠してこれを粉砕するつもりである。(日本軍と)真剣に戦う努力はしないであろう。・・・
 <米国>側も蒋介石の暗殺を計画し、毒殺・航空機事件・自殺に見せかけるという三方法が検討されたが、1944年ビルマ等の国際状況の変化で中止した。 」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%99%B8%E6%89%93%E9%80%9A%E4%BD%9C%E6%88%A6
 すなわち、現在同様、国際情勢音痴であった米国は、日支戦争/太平洋戦争において、中国国民党以上に中国共産党は日本軍との戦いを回避した・・それどころか、むしろ、日本軍と事実上の提携関係にあった(コラム#省略)・・というのに、この作戦の際の国民党軍のふがいなさと、国民党の腐敗ぶりから、同党に見切りをつけることとなり、その結果、日本降伏後の共産党による支那政権奪取・・1949年10月1日に中華人民共和国成立
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E5%85%B1%E5%86%85%E6%88%A6
・・を必然化したのです。
 これは、この作戦のおかげで、日本が、結果としてですが、日支戦争の直接的目的(正しくはスローガン)である暴支膺懲
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9A%B4%E6%94%AF%E8%86%BA%E6%87%B2
・・この場合の「支」は国民党政府を意味した・・を達成するはこびとなった、ということでもあります。(太田)
(続く)