太田述正コラム#8382(2016.5.7)
<入江曜子『古代東アジアの女帝』を読む(その5)>(2016.9.7公開)
 「推古31(623)年、任那<(注15)>が新羅に併呑された。
 (注15)「後に狗邪韓国(金官国)そして任那となる地域は、弥生時代中期(前4、3世紀)に入り従来の土器とは様式の全く異なる弥生式土器が急増し始めるが、これは後の任那に繋がる地域へ倭人が進出した結果と見られる。
 ・・・倭が新羅や百済を臣民とした等と書かれている、広開土王碑日本軍改竄説が否定され、史料価値が明確になったこと、またいくつもの日本固有の前方後円墳が朝鮮半島南部で発見され始めたことなどから、近年ヤマト朝廷そのもの或いは深い関連を持つ集団による統治権、軍事統括権および徴税権の存在について認める様々な見解が発表されている。・・・
 現代韓国では民族の誇りを養う為、政府や学界が、記紀、考古学的成果、広開土王碑、『宋書』倭国伝等の史料を、積極的に曲解する民族史観を国を挙げて推進している。・・・
 2015年4月、韓国の国会は、日本の歴史教科書に任那の記述があることを糾弾する「安倍政府の独島領有権侵奪と古代史歪曲に対する糾弾決議案」を採択した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%BB%E9%82%A3
 「世界約50カ国で教科書を出版しているオックスフォード大学の出版社が制作している教科書は「5世紀の日本の勢力は朝鮮半島南部まで支配した」と記述している。また、プレンティスホール社が出版しているアメリカの教科書『世界文化』は「西暦400年ごろ、(日本は)幾つかの氏族が連合して日本の大半を統一し、朝鮮南部の地域を統治するまでに至った」と記述してあり、カナダやオーストラリアの教科書もまた、同様の記述が存在する。またコロンビア大学のオンライン百科事典や米議会図書館には、「古朝鮮は紀元前12世紀に、中国人、箕子が朝鮮半島北部に建てた国だ。その当時、朝鮮半島南部は日本の大和政権の支配下にあった」と書かれている。中華人民共和国では上海人民出版社が出版している教科書『世界史講』は「新羅は、半島南方で 早くから長期間にわたって倭人の基盤となっていた任那地区を回復した」と記述している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%BB%E9%82%A3%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%BA%9C
 「韓国の歴史家ユン・ヨングは・・・2011年に発見された張庚による『諸番職貢圖巻』・・・の中の・・・「新羅<は>・・・或るときは韓に属し、或るときは倭(国)に属した」・・・という記述について、任那日本府(369年-562年)問題や414年に建立された広開土王碑碑文における・・・百済と新羅は高句麗属民で朝貢していた。しかし、倭が辛卯年(391年)に海を渡り百済・加羅・新羅を破り、臣民となした・・・という記述などの諸問題に関連して議論が起こるだろうとした。・・・
 <ちなみに、>『梁職貢図』は、梁の武帝(蕭衍)の第7子、後に元帝(孝元皇帝)として即位する蕭繹が、荊州刺史を務めていた時代に作成されたと伝えられ・・・原本は紛失してい<て>・・・三種類の模本が現存しているが、いずれも完本ではなく、記事に欠落も多<かったところ、>・・・<2011年に>歴史学者趙燦鵬によって発見された清朝時代の画家張庚による『諸番職貢圖巻』では、18国の題記を含んでいる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%B7%E8%B2%A2%E5%9B%B3
⇒(北朝鮮はもとより、)韓国も、様々な意見があるところでルールと論理に基づいて物事を処理していく、ということが本来的にできないようですね。
 これでは、衆議を集めた政治も、真理を追求する科学も根付かないでしょう。(太田)
 この事態をめぐって朝議は紛糾した。
 まず外交によって事態の確認をという穏健派を押し切って、〈任那は初めからわが国の内宮家である。新羅を討って任那を取り、百済に附けるがよい〉と、声を挙げたのは中臣某であるが、彼はその地位からいって親百済の大臣・馬子の代弁者であろう。
 三韓のそれぞれが、隋を倒して国を建てた唐に対して服従を誓う一方で、虎視眈々と領土拡大の機会を狙っている。
 特に新羅は百済からの攻撃をうけ苦戦を強いられている。
 任那救援を口実に新羅を叩く好機だとする主張に、新羅に対する不信を抱く人々が賛同する。
 推古はまず実状を知るための使者を新羅と任那へ送り、筑紫までの出兵を認めた。
 しかし使者の帰国を待たず、将軍達が動いたらしい。
 だが「新羅国の主(きみ)、軍多(いくささわ)に至ると聞きて、予(あらかじ)め慴(お)ぢて服(まつろ)はむと請(もう)す」と『日本書紀』が記し、『三国史記』の「新羅本紀」も沈黙しているところから推して交戦には至らなかったとみていい。
 まもなく新羅からは任那の貢物と併せて正式に朝貢する旨の「表(ふみ)」が届く。
 <(日本史学者の(太田))>坂本太郎はこの国書を以て「このときはじめて朝貢関係に入った」としている。
 圧迫すれども干戈は交えずの推古の非戦の思想の勝利である。
 帰国した使者から新羅が外交交渉に応じる姿勢を示していたことを知った馬子は、推古の政治的判断の的確であることを認めざるをえなかった。
 「悔しきかな、早く師(いくさ)を遣(つかわ)せしこと」と一言、呟いている。
 
⇒前年に聖徳太子が死去しているので、623年の時点では、馬子が推古の唯一の最高補佐者であったわけですが、推古の日本語ウィキペディアにはこの新羅との間の事件に何の言及もなされず、他方、馬子のそれに、「新羅の調を催促するため馬子は境部雄摩侶を大将軍とする数万の軍を派遣した。新羅は戦わずに朝貢した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%98%87%E6%88%91%E9%A6%AC%E5%AD%90
と馬子だけを主語にした一文があるのは、入江に代わって、日本の上代史関係者と思しきウィキペディア執筆者達の、著しく偏った、男尊女卑的姿勢を叱り飛ばしたいところです。
 なお、入江は、この時が新羅がヤマトに朝貢した最初であった、との坂本の言を引いていますが、一体、坂本、入江両名は、上出の、『諸番職貢圖巻』や広開土王碑の記述、及び、「倭の五王のうち珍王と済王が、南朝宋の文帝から「使持節都督、倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓・六国諸軍事安東大将軍」という称号を要求している<との>記述」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E7%BE%85
から窺えるところの、それより1世紀以上前に、既に新羅がヤマト(倭)の属国であった事実・・新羅の日本語ウィキペディアは、623年の話は(重要でないから?)記述していません!・・をどう考えているのでしょうか。
 蛇足ながら、新羅についてとは違って、百済については、「『日本書紀』には、隣国に攻められ窮地に陥った百済に対して日本が援軍を派兵した記録や、領土を奪われた百済に任那の一部を割いて与えた記録、さらには百済が日本に朝貢したり、王族を人質として差し出した記録などが数多く記されている」ものの、「中国の『隋書』に<は>、「新羅・百済は、みな倭を以て大国にして珍物多しとなし、ならびにこれを敬い仰ぎて、恒に使いを通わせ往来す。という・・・朝貢関係があったことをうかがわせる・・・記述があ<るにとどまり、また、>広開土王碑も倭については「百殘■■新羅を破り以って臣民と為すと記し<、「百済」への直接的言及がなく、>、この「百殘」を百済と見なし、辛卯年(391年)に倭に服属していたとする見解も<ないわけではない>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E6%B8%88
けれど、要するに、『日本書紀』以外には、日本に朝貢していた(日本の属国であった)旨の明確な記述はないのですね。(太田)
(続く)