太田述正コラム#0403(2004.7.7) 
<韓流・韓国・在日(続々)>

 ところで、一介の女性(注2)の1894??1896年、63??65歳の時の朝鮮半島旅行の見聞録に信憑性はあるのでしょうか。

 (注2)バードには学歴はないが、60歳の時にスコットランド地理学会特別会員、62歳の時に英国地理学会の特別会員に選ばれている(イザベラ・バード「日本奥地紀行」平凡社2000年(原著は1880年)解説525頁等)。
 
 その16年前(1878年)の彼女の47歳の時の日本旅行の見聞録である「日本奥地紀行」(上掲)を読めば、(私自身、明治維新直後の日本についての知識がそれほどあるわけはありませんが、)彼女の書いていることの信憑性は高い、と言わざるを得ません。ご関心のある方はご自分でお確かめください。
 ただ、一点留保が必要です。
 バードが「美術工芸はなにもない。」と言っているのは、美術館や博物館がなかっただけでなく、まともな商店がなく、美術工芸品を扱っている商店も当然なかったであろうことから、彼女の目に美術工芸品が入らなかったのでしょう。
 そもそも例えば、高麗や李朝の陶磁器は極めて優れており、秀吉の朝鮮出兵の時に大量に日本に連れてこられた朝鮮半島の陶工達は日本の陶磁器に大きな影響を与え、薩摩焼、唐津焼、萩焼等の陶器や、伊万里という磁器(日本初)が生まれた(http://www.mino.cc/history.html。7月7日アクセス)ことは、日本では良く知られています。
 そんな知識がなかったとしても、バードに見る眼さえあったならば、1924年にソウルに朝鮮民族美術館を設立した浅川巧(1891??1933年。http://www.sofukan.co.jp/books/126.html(7月6日アクセス))と柳宗悦(1889??1961年(注3)。http://www.shirakaba.ne.jp/tayori/tayori67.htm(7月6日アクセス))のように、朝鮮の民間の工芸品の価値を「発見」することができた(注4)はずです。

(注3)柳は、韓国の民間の名も知れぬ職人がつくった工芸品の美しさに魅了され、民間の工芸品を「民藝」と命名した。
 (注4)新装なった東京の日本民藝館(柳宗悦創設)における朝鮮工芸品の特別展の開催を記念して、4日に日本民藝館で皇太子殿下がビオラ奏者として韓国の著名なピアニスト・チョン・ミョンフンらとピアノ四重奏曲を演奏されたのは、このような「民藝」という言葉の由来による。
ちなみに、韓国の有力紙、朝鮮日報の英語版では(言葉の本来の意味での)ホームページにこの話の記事の見出しが出ているのに、日本語版では出ておらず、小さい扱いだ。そのくせ、英語版の記事には「なぜ民藝館で?」の説明が省かれているが、日本語版の記事には書いてある。そのほか、日本語版だけに、チョンの「皇太子のビオラの実力は驚異的」という言葉が載っている。まことに芸が細かいことよ。
(以上、http://english.chosun.com/w21data/html/news/200407/200407060009.html及びhttp://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2004/07/06/20040706000009.html(いずれも7月6日アクセス)による。)

 さて、バードの朝鮮紀行から拾った、「李氏朝鮮のどちらかと言えば悪いところ」を点検してみましょう。
 バード自身が指摘しているように、宗教心の欠如は李朝による16世紀の仏教弾圧(34頁)と朱子学の国教化が原因であり、女性差別は李朝による蟄居制度の導入に負うところが大きい、と考えられます。人々の心の貧しさも、教育が科挙受験のために暗記に堕してしまっていたこと(489頁)に帰すことができるように思われます。
結局のところ、李氏朝鮮のどちらかと言えば悪いところは、多かれ少なかれ政治の搾取性に起因すると言って良いでしょう。(士農工商の「工」と「商」の未発達の原因は、そもそも政治の搾取性の例として紹介した文中に出てきます。)

 自国の安全保障上の必要に迫られ、このいわば、朝鮮半島における諸悪の根源とも言うべき政治の搾取性を、最初は助言と指導によって、そして最終的には仕方なく朝鮮半島を併合することで完全に治癒することを試み、それにある程度成功したのが隣国の日本でした。

 少なくとも日本による朝鮮半島の保護国化については、そして恐らくはそれが目的を達しなかった場合の朝鮮半島の併合についても、1910年の併合の12年前、そして1903年の保護国化(韓国統監府設置。http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/itouhirofumi.htm(7月7日アクセス))の5年前に出版されたバードの「朝鮮紀行」が積極的に是認していたところです。
 「朝鮮についていくらかでもご存じのすべての人々にとって、現在朝鮮が国として存続するには、大なり小なり保護状態におかれることが絶対的に必要であるのは明白であろう。日本の武力行使によってもたらされた名目上の独立も朝鮮には使いこなせぬ特典で、絶望的に腐敗しきった行政という重荷に朝鮮はあえぎつづけている。・・最も顕著な悪弊を改革する日本の・・助言者と指導者としての・・努力は、いくぶん乱暴に行われはしたものの、真摯であったことはまちがいない。」(ウォルター・C・ヒリアーによる序4頁)、「堕落しきった朝鮮の官僚制度の浄化に日本は着手したのであるが、これは困難きわまりなかった。」(344頁)、「日本は朝鮮人を通して朝鮮の国政を改革することに対し徹頭徹尾誠実であり、じつに多くの改革が制定されたり検討されたりしていた。また一方では悪弊や悪習がすでに排除されていた。」(350頁)、「日本は朝鮮式機構の複雑多岐にわたる悪弊と取り組み、是正しようとした。現在行われている改革の基本路線は日本が朝鮮にあたえたのである。日本人が朝鮮の政治形態を日本のそれに同化させることを念頭に置いていたのは当然であり、それはとがめられるべきことではない。」(474頁)、「経験が未熟で、往々にして荒っぽく、臨機応変の才に欠けたため買わなくともいい反感を買ってしまったとはいえ、日本には朝鮮を隷属させる意図はさらさらなく、朝鮮の保護者としての、自立の保証人としての役割を果たそうとしたのだと信じる。」(564??565頁)

(続く)