太田述正コラム#8452(2016.6.11)
<一財務官僚の先の大戦観(その50)>(2016.10.12公開)
 「伊藤博文を始めとする強力な元老たちが首相を支えていた時代には、軍部の暴走を許すようなことはなかった。
 その一つのエピソードが、明治39年5月22日の「満州問題に関する協議会」<(注101)>での伊藤博文の行動である。
 (注101)「日露戦争後、ロシアより譲り受けた関東州と長春・旅順間の鉄道(後の南満州鉄道)を防衛するため、1905年9月26日に公布された「関東総督府勤務令」により天皇直属の機関である関東総督府が設置された。本部は遼陽に置かれた。関東総督は満州北部に依然として勢力を保持するロシアの脅威に備えるため排他的な軍政を断行したが、市場の門戸開放を主張する<英米>の対日感情を悪化させる結果を招き、第1次西園寺内閣の外務大臣の加藤高明が辞任する事態となった。
 外相を<臨時兼務した>西園寺公望や文治派の巨頭である伊藤博文(当時は朝鮮統監)は関東総督府の軍政を民政に移行するため動き、1906年5月22日より伊藤主導で元老や内閣、軍上層部を集めて開催された「満州問題に関する協議会」において伊藤ら文治派の主張が児玉源太郎ら武断派の抵抗を退け、軍政から民政への移行の方針が決定された。
 [また、「満州経営」の主体として南満州鉄道株式会社を設立することが定められた。]
 同年9月1日、関東総督府が廃止され、旅順に移転・改組された関東都督府になった。・・・
 〈<そして、>南満州鉄道株式会社<が>・・・<同>年11月26日<に>設立<された。>・・・当初はアメリカの実業家のエドワード・ヘンリー・ハリマンが資本参入し、桂・ハリマン協定により日米共同経営が予定されていたが、外務大臣の小村壽太郎が反対し、日本単独資本となった。 〉
 <ちなみに、>1919年、原内閣の時代になると、・・・関東都督府は廃止となり、軍事と政治が分離された。関東都督府直属の守備隊と南満州鉄道の附属地を警備する守備隊は関東軍に、民政部門は関東庁とに分離設置された。 これによって関東軍は、台湾軍・朝鮮軍・支那駐屯軍と並ぶ独立軍となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E6%9D%B1%E9%83%BD%E7%9D%A3%E5%BA%9C
https://books.google.co.jp/books?id=glRoeOJMQbQC&pg=PT6&lpg=PT6&dq=%E6%BA%80%E5%B7%9E%E5%95%8F%E9%A1%8C%E3%81%AB%E9%96%A2%E3%81%99%E3%82%8B%E5%8D%94%E8%AD%B0%E4%BC%9A&source=bl&ots=CpdjZHtxNu&sig=u6Oo0j6e4DDYrNFcmOm4EcpcFq0&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwjwucLPup_NAhWHxqYKHdY7BBsQ6AEIRDAG#v=onepage&q=%E6%BA%80%E5%B7%9E%E5%95%8F%E9%A1%8C%E3%81%AB%E9%96%A2%E3%81%99%E3%82%8B%E5%8D%94%E8%AD%B0%E4%BC%9A&f=false ([]内)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E6%BA%80%E5%B7%9E%E9%89%84%E9%81%93 (〈〉内)
 韓国初代総監<(ママ(太田)>を務めていた伊藤は、首相官邸に、西園寺首相始め主要閣僚の他、山縣有朋、大山巌、松方正義、井上馨、桂太郎、山本権兵衛、児玉源太郎(参謀総長)を参集し、自ら長文の意見書を提出、日露戦争後、英米等から批判の出ていた満州の軍政廃止を主張した。
⇒「総監」は「統監」の、恥ずかしいミスプリです。(太田)
 伊藤は、自ら児玉源太郎の反論をことごとく退け、満州の現状維持を目論む寺内正毅陸相が趣旨には賛成として何も決めずに会議を終わらせようとするや「大体において異存がないというのではダメだ。
 異存がないなら、これを実行する手段を講じてほしい」と一歩も譲らずに、満州における軍政廃止、清朝官憲への移管を決めたのであった(<岡崎久彦>『小村寿太郎とその時代」)。・・・
⇒岡崎久彦は、外務官僚として、外務省の宣伝のために一連の著作を残したのであって、上掲本についても、戦前、外務省との間で東アジア外交の主導権争いを演じた軍部を貶めるという目的に資する史実しか援用していない可能性がある、という警戒心が松元には全くないようです。
 (松元自身が、大蔵省(財務省)の宣伝のために、この本を書いた、と言えるところ、だからこそ、この本のトーンは、反軍事官僚、親非軍事官僚、というトーンで貫かれているわけです。
 お前だって、旧防衛官僚として、戦前を親軍事官僚、反非軍事官僚的な色眼鏡で見ているのでは、と言われそうですが、太田コラムを読み込んでおられる方は、決してそんなことはないことをご存知のはずです。)
 ここでは、松元は、児玉を軍部代表格視するとともに悪役視し、伊藤を元老代表格視しするとともに善玉視していますが、いかがなものでしょうか。
 まず、児玉ですが、この会議が行われた年の前年の1905年には、「奉天会戦勝利の報に大本営がウラジオストクへの進軍による沿海州の占領を計画した際、[当時、陸軍大将の桂太郎が内閣総理大臣、陸軍中将の寺内正毅が陸軍大臣、陸軍元帥の山縣有朋が参謀総長であったところ、]児玉は急ぎ東京へ戻り戦争終結の方法を探るよう具申し・・・海軍大臣山本権兵衛が児玉の意見に賛成したこともあり、ようやく日露講和の準備が始められることとなった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%90%E7%8E%89%E6%BA%90%E5%A4%AA%E9%83%8E
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%82%E5%A4%AA%E9%83%8E 及び
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B8%E8%BB%8D%E5%A4%A7%E8%87%A3 及び
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%82%E8%AC%80%E6%9C%AC%E9%83%A8_(%E6%97%A5%E6%9C%AC) の3つ等([]内)
という、彼の逸話からしても、児玉を軍部の代表格視したり悪役視したりするのは誤りでしょう。
 次に、伊藤ですが、「日清戦争後、伊藤は対露宥和政策をとり、陸奥宗光・井上馨らと共に日露協商論・満韓交換論を唱え、ロシアとの不戦を主張した。同時に桂太郎・山縣有朋・小村寿太郎らの日英同盟案に反対した。さらに、自らロシアに渡って満韓交換論を提案するが、ロシア側から拒否される。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E8%97%A4%E5%8D%9A%E6%96%87
といった具合に、彼が、当時の国際情勢について、音痴に近かったことを想起すべきですし、元老の代表格とも言えなかったからこそ、彼のこの時の主張は退けられたわけです。
 そもそも、伊藤は、「満州問題に関する協議会」に、元老としてではなく、あくまでも、満州に接する地域である朝鮮の統監として、首相の西園寺の招致に応じてこの協議会に出席したと考えるべきであり、伊藤が述べた見解も、西園寺の見解と同じであり、会議の主宰者が述べてしまったら会議にならないので、伊藤に代わって述べさせたもの、と思われるのです。
 いずれにせよ、伊藤を元老代表格視したり善玉視するのもまた誤りなのである、というのが私の考えです。(太田) 
 伊藤博文は、韓国統監に就任するとき、韓国に於ける日本軍隊の命令権を要求し、それを手にしている<(注102)>(<星新一>『明治の人物誌』)。」(178、182)
 (注102)「韓国統監は韓国に駐剳する軍(韓国守備軍)の司令官に対する指揮権を有していた(統監府及理事庁官制第四条)。そのため文官の伊藤が就任して指揮権を持つことには現地司令官長谷川好道や元老山縣有朋が難色を示したが、明治39年(1906年)1月14日に明治天皇は参謀総長大山巌、陸軍大臣寺内正毅に自ら勅語を与えて伊藤の権限を認めた。これにより大日本帝国憲法下で唯一文官が軍の指揮権を持つ職となった。なお、伊藤・曾禰と文官の統監が2代続いた後は、朝鮮総督も含めていずれも武官が就任している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%B1%E7%9B%A3%E5%BA%9C
⇒こんな措置は、統監が文官、とりわけ軍事素養のない文官、の場合のことを考えれば言語道断ですが、武官の場合であったとしても、指揮系統を乱すものであり、極めて問題がありました。(太田)
(続く)