太田述正コラム#0418(2004.7.22)
<ウォルト・ディズニー(その1)>

 「世界はますますディズニーを米国の本当の象徴とみなすようになりつつある。自由の女神、憲法、や権利の章典など忘れてしまえ。米国とはミッキーマウスのことなのだ。ディズニーワールドというレクリエーションのメッカはずっと以前にワシントンという米国の歴史上のメッカに取って代わり、米国の最も人気のある観光地となった。いまやディズニーランド及びディズニーワールドについて、米国の精神(spirit)、国民(nation)の主要な(key)聖地、米国の意味と使命を担うイメージの保持者(bearer)、とする者もいる。」と昨年米国のあるキリスト教セクトのサイトは書いています(http://www.agcmcc.org/sermons_2003/111203.html。7月21日アクセス)。
United Church of Christの牧師(minister)であるフィリップ・ロングフェロー・アンダーソン(Philip Longfellow Anderson)に至っては、著書The Gospel According to Disney: Christian values in the Early Animated Classics, Longfellow Publishing, 1999で聖書に書かれている価値観や教訓、例えば罪、苦しみ、悪、信仰、希望、愛、成熟、赦し、罪の贖い、従順、自己犠牲、をディズニーのアニメ映画から学ぶことができる、と言っています(http://laughingplace.com/News-ID500690.asp。7月21日アクセス)。
アマゾン・コムのこの本の読者書評欄(http://www.amazon.com/exec/obidos/tg/detail/-/0966956400/102-7875583-2988143?v=glance。7月21日アクセス)を覗いてみると、四つの書評の内三つはこの本を絶賛し、この本を日曜学校の教材に用いたり、子供にキリスト教の価値観や倫理を教えるために用いることを勧めています。
 しかし、一つの書評(これだけハンドルネームが使われている)は、このような評価に真っ向からいどんでいます。
 「この本の著者も読者達もウォルト・ディズニーの意図を完全に読み間違えている。ディズニーの娯楽作品の意図は、「イエス・キリストの考えを普及する」ところにはなく、道徳の源泉が聖書以外にもあることを示すところにある。・・<そもそも>ウォルト・ディズニーはキリスト教徒ではないのだ。」と。
 この点をテーマにした本が今年の秋に出版されます。
 マーク・ピンスキー(Mark Pinsky)の The Gospel According to Disney: Faith, Trust and Pixie Dustです。(副題は違いますが、)アンダーソンの本と同じタイトルをつけるところがいかにも挑戦的ですね。ちなみにピンスキーはユダヤ人(ただし、Congregation of Liberal Judaismの信徒。http://www.markpinsky.com/bio2.htm(7月21日アクセス))です。
 ピンスキーは次のように書いています(以下、ピンスキーのディズニー批評については、http://books.guardian.co.uk/news/articles/0,6109,1264472,00.html(7月20日アクセス)による。なお、若干私の手を加えてある)。
 「1937年以来、ディズニーは35本のアニメや通常の映画をつくってきたが、その中に、欧米の殆どの人々等が信奉するキリスト教やユダヤ教に言うところの神への言及が全くなされていない。」重要な役割を担ったキリスト教指導者(ordained character)が登場するのはディズニーのスタジオが映画をつくり出して60年近くたった1997年の「ノートルダムのせむし男」の悪漢の僧侶フロロをもって嚆矢とする。米国のキリスト教徒達は、ディズニーのテーマパークに必ずある、米国のどこにでもあるメインストリートに教会の姿だけがないことにどうして気が付かないのだろうか。また、ディズニーの汽船には一つの礼拝堂(chapel)もない。
 それどころか、ディズニーは映画やテーマパークから宗教色を完璧なまでに払拭している。
 例えば、ピノキオの親方が木の人形が生命を与えられることを願う場面で、跪いて天をあおぐが、神に祈ることはしない。また、ファンタジアの終わりの部分は、シューベルトのアベ・マリアの音楽こそ流れるが、当初予定されたステンドグラスの代わりに、木々がゴシックのアーチを形成しそのアーチの向こうに夕焼けが見える、というセッティングに切り替えられた。
 それは一つには、ディズニーが、誰かを刺激し、金儲けの妨げになりかねないことはしないと決意していたからだ。
 しかし、それだけではないのだ。
1966年にディズニーが亡くなった時、彼の娘のシャロンは、ディズニーがとても宗教的な人間であったとしつつ、「彼は、宗教的であるからといって、教会に行く必要があるとは思っていなかった。彼はあらゆる宗教に敬意を払っていた。彼はいかなる宗教も批判の対象にはしなかったし、宗教にからむジョークは一切言わなかった。」と語っており、ディズニーが作品の中から宗教色を払拭したのは彼の「宗教的」信念でもあったことが分かる。

(続く)