太田述正コラム#0419(2004.7.23)
<ウォルト・ディズニー(その2)>

 結局、ウォルト・ディズニーがその生涯をかけて追求したものは、彼が普遍性があると信じていたところの「米国的なるものマイナスキリスト教」の世界への広報宣伝(注1)とそれによる金儲けだった、ということになりそうです。

(注1)1955年に誕生したカリフォルニア州ロサンゼルス郊外のディズニーランドは、世界最初の「テーマ」パークであった(能登路雅子「ディズニーランドという聖地」岩波新書1990年42頁)ことを思い出してほしい。日本にその後雨後の竹の子のようにできた(東京ディズニーランド以外の)数あるテーマパークの「テーマ」の大部分の何と矮小なことか。

 では、ディズニーにとって「米国的なるもの」、すなわち普遍的なもの、とは一体何だったのでしょうか。
 第一に、徳を積み、勤勉であれば、どんな願い事も叶うという信念(ガーディアン前掲)。
 第二に、子供というものは年齢を超えた普遍的存在であるとの見方(能登路前掲書30頁)。
 第三に、自然の徹底的な否定と狂信的とさえいえる衛生思想・・雑草と路上・建物内のゴミが皆無のディズニーランド!・・(能登路前掲書78頁)
 第四に、(第二と第三からの論理的帰結でもあるが、)人間の醜悪さ、老醜、死の(観念上の)否定(能登路前掲書116頁)。
 第五に、あくなきフロンティア精神(冒険・探検・開拓)精神(能登路前掲書179??199頁)。
 第六に、第五と裏腹の関係にある、黒人、アラブ人、ユダヤ人や日本人等に対する差別意識(注2)。

 (注2)ダンボに登場する黒いカラス、初期のファンタジアに登場する色の黒い女の怪物達(centaurs)、アラディンに登場する盗賊等の描き方、あらゆるアニメに登場する悪漢は大きな鼻を持ち浅黒い肌をしていること(ガーディアン前掲)、1960年に制作された映画「スイス・ファミリー・ロビンソン」(邦題「南海漂流」)で海賊の親玉を演じたのが日本人俳優の早川雪洲であったこと(能登路前掲書188??190頁)。

 さて、以上の「米国的なるもの」をご覧になってどう思われましたか。
 (第6の差別意識を除き、)大変結構なことだがいずれも不自然であり実現不可能ではないか、と思われたとすれば、あなたが米国人でなく日本人である証拠です。いや、日本人でなくても、米国人以外ならおおむね同じような反応でしょう(注3)。

 (注3)客観的に見て、宮崎駿の作品(アニメ及びテーマパーク(三鷹の森ジブリ美術館))の方が、ディズニーの作品よりはるかに普遍性があると言ってよかろう。その意味で、昨年、彼の作品「千と千尋の神隠し」が米アカデミー賞の長編アニメ部門賞を受賞したことは大きな意義がある。なお、奇しくも宮崎アニメを制作する会社・スタジオジブリは1997年にディズニーと提携している(切通理作「宮崎駿の<世界>」ちくま新書2001年8頁)。

 それなのにどうして世界中の人々にディズニーの世界は人気があるのでしょうか。
 米国人以外の人々は、たわいない純粋なフィクションの世界だと割り切ってディズニーの世界を楽しんでいる、ということなのでしょう。
 これに対し米国人は、以上の「米国的なるもの」(のうち第6の差別意識を除き、)はいずれも実現可能な夢である、と受け止めている(前回のコラムの冒頭に掲げた一文参照)ようですから、まことに米国人は変わった人々だと言いたくなります。
 しかも、米国における最近のディズニーとキリスト教をめぐる大真面目な論争を見ていると、米国がキリスト教原理主義化しつつある(コラム#93、95、331)こと、それに伴って米国が一層偏頗な国になりつつあること、を痛感させられます。天国のディズニーは、恐らく苦笑しながらこの論争を眺めていることでしょう。

(完)