太田述正コラム#8695(2016.10.27)
<プーチンのロシア(その7)>(2017.2.10公開)
 「1980年代のモスクワの自由奔放な(Bohemian)知識人にしてアングラ政治活動家から、2000年代末にはモスクワ大学(Moscow State University)<(注13)>の教授となったドゥーギンの・・・影響力は<著者自身によって>時々却下(dismiss)されるし、彼の重要性についての証拠の若干は、印象的ではあるものの、状況証拠的だ。
 (注13)「正式名称は、M. V. ロモノーソフ・モスクワ国立総合大学・・・1755年に創設・・・サンクトペテルブルク大学と並ぶロシアの名門大学・・・。ロシアにある大学としては最大規模」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%82%B9%E3%82%AF%E3%83%AF%E5%A4%A7%E5%AD%A6
 ちなみに、「サンクトペテルブルク国立総合大学<は、>・・・1724年、ピョートル大帝によって帝国科学アカデミー(現在のロシア科学アカデミー)と同時に設立された。1819年に科学アカデミーから分離され、独立した大学となった。・・・ロシア最古の大学」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%82%AF%E3%83%88%E3%83%9A%E3%83%86%E3%83%AB%E3%83%96%E3%83%AB%E3%82%AF%E5%A4%A7%E5%AD%A6
⇒ノーベル賞受賞者がモスクワ大6人(うち平和賞1人)、サンクトペテルブルク大が7人だとはいえ、世界大学ランキング(2014年)では、それぞれ、114位、232位に過ぎず、また、学部生だけで、モスクワ大は40,000人、サンクトペテルブルク大は32,000人、を擁するマンモス大学であり(以上、上の2つの典拠による)、教職員も学生もピンからキリまでいると思った方がよさそうです。
 とにかく、大変失礼ながら、モスクワ大なんて、佐藤優がプロテスタント神学の講師が務まったくらい・・もっとも、彼、現在、出身の同志社大神学部の客員教授を務めている!
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E8%97%A4%E5%84%AA_(%E4%BD%9C%E5%AE%B6)
・・ですから、ドゥーギンがモスクワ大の教授をやったなんてのも、大した箔付けにはならないでしょうね。(太田)
 著者が記すように、ドゥーギンは、プーチンがそうするよりずっと前の2010年に、早くも、「ノヴォロシア(Novorossiya)」<(注14)>という言葉を使って、ウクライナの東部諸州の分離に言及し、ドネツク共和国(Donetsk Republic)の最終的な旗のデザインまで予言する形で、ウクライナの解体を予言しているのは、「恐ろしくかつおどろおどろしく正しかった」。
 (注14)「18世紀末にロシア帝国が征服した黒海北岸部地域を差す歴史的な地域名である。「新しいロシア」を意味する。・・・
 2006年ウクライナ議会選挙、しばしばロシア語保護に代わる意見を述べる地域党が南部ウクライナで多数を獲得した。同地はノヴォロシアがかつて存在した土地である。
 2014年にウクライナでの騒乱を契機にクリミア自治共和国が独立を宣言した上にロシアへの編入の是非を問う住民投票を同年3月16日に実施し、ロシア編入が圧倒的多数で決定すると。ロシアはこれを承認した。このころからロシアではマスメディアを中心にクリミア半島に接続するウクライナ南部の黒海北岸を地域「ノヴォロシア」と呼び始めた[1]。ドンバス地域では親ロシア派の分離・独立運動によってノヴォロシア人民共和国連邦が結成されている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%B4%E3%82%A9%E3%83%AD%E3%82%B7%E3%82%A2
 忍耐強く、かつ、自分の立場を誇張しないように注意を払いつつ、著者は、ネオ・ユーラシア主義達がいかにプーチンのロシアで影響力を振るうに至ったかを示す。
 ドゥーギンの最も有名な本である、『地政学の諸基礎』は、彼が1990年代初に参謀大学校での2週間に1回の諸講義のために準備した諸原稿をまとめたものだ。
 この本は、冷戦は、ユーラシアのランドパワーと大西洋のシーパワーの間の恒久的紛争の直近の挿話に過ぎない、と主張した。
 その主要主題は、ロシアを、地理的に封じ込め、倒壊的な自由主義的諸価値を普及させることで政治的に掘り崩そうとしているところの、米国とNATOが率いる、全球的な「大西洋主義的(Atlanticist)」陰謀を敗北させる必要性だった。・・・
 著者は、2000年代初から2015年の「ユーラシア連合(Eurasian Union)」<(注15)>の設立に至る間の公的論議の中へのユーラシア主義的諸主題の漸次的浸透を文書化する。
 (注15)「経済連携協定、政治的連携を行う構想。・・・カザフスタンのヌルスルタン・ナザルバエフ大統領<が>1994年5月、モスクワ大学のスピーチ中に、ユーラシア連合の概念を、提唱した。・・・この構想は、ロシア大統領(第3期目)決定直後の2011年10月、ロシア連邦首相ウラジーミル・プーチンの発言によって注目されるようになった。・・・現在の参加国は、・・・ロシア、ベラルーシ、カザフスタン・・・。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A6%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%82%B7%E3%82%A2%E9%80%A3%E5%90%88
 ドゥーギンの影響力がどれほど直接的なものであったか、また、どこまでかれの諸理論が現実に信じられているか、ははっきりしない。
 はっきりしているように見えるのは、ウクライナ紛争が勃発した時点までには、エール大の歴史学者のティモシー・スナイダー(Timothy Snyder)<(コラム#4326、8266)>が書いたように、「ロシア政府は多かれ少なかれ計算可能な諸利害を持ったロシア国家を単に代表することを止めており、ユーラシアの統合というよりでっかい(grander)ヴィジョンを代表するに至っていた」ことだ。」(B)
 「著者は、「ロシアの「ヴァイマール(Weimar)時代」の混乱(turmoil)と経済的混沌は、全球的選良達による文化的屈辱と虐待(victimization)の物語(narrative)、と同時に、アイデンティティ、民族的(national)純粋性、反自由主義、そして、地政学の物語、のための豊饒な基盤を提供した」、と記す。」(C)
(続く)