太田述正コラム#8973(2017.3.15)
<再び英国のインド亜大陸統治について(その3)>(2017.6.29公開)
 (4)英語
 「英語は、統治者達と被治者達との間の仲介者達としての役割を果たすべく、少数の者達に教えられた。
 英国は、インド亜大陸の大衆を教育する欲求も、こんな支出のために予算を講じるつもりもなかった。」(A)
 「もとより、英語の「恩恵(gift)」は否定できない・・結局のところ、私は、書くにあたってそれを用いている・・が、インド亜大陸の独立時の識字率はわずか16%に留まっていた。」(B)
⇒本そのものには言及があるのでしょうが、「<インド亜大陸では、>18世紀には、多くの宗教の寺院・モスクなどの施設や大きな村に学校があり、インド全土に普及していた・・・1813年、英領インドの初代総督ウォーレン・ヘースティングズ はインド<亜大陸>人は一般に「<欧州>のどの国の国民よりも、読み書きと算術の知識で上回っている。」と記している。大英帝国側により、・・・伝統的な教育は排除され、これ以後は識字率は衰退した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AD%98%E5%AD%97
ことは覚えておいていいでしょう。(太田)
 (5)鉄道
 「英国の人種諸理論は、鉄道に関わることについては全開となり、法律でもって、インドの諸作業場(workshops)で蒸気機関車を設計して製造することを不可能にした。」(B)
⇒ここに限りませんが、イギリス人の人種主義意識の希薄さ(コラム#省略)を踏まえ、「「人種」諸理論」ではなく、「「文明」諸理論」、と私なら記したいところです。(太田)
 「鉄道網(railways)<の整備>は、最初、東インド会社によって、この会社の諸目論見(calculations)の下、他のあらゆるものと同様、自身が裨益すべく、思いつかれたものだ。
 総督(Governor General)のハーディング(Hardinge)卿<(注5)>は、1843年に、鉄道網は、「この国の、商業的、行政的、そして、軍事的、コントロールの観点から」裨益的であろう、と主張した。
 (注5)Henry Hardinge, 1st Viscount Hardinge。1785~1856年。下院議員、陸相を経てインド総督:1844~48年。英陸軍最高司令官:1852~56。陸軍元帥:1855年~。英国教の教区牧師の息子で、寄宿舎学校(Durham School)卒後英陸軍に入隊。
https://en.wikipedia.org/wiki/Henry_Hardinge,_1st_Viscount_Hardinge
 その構想と建設そのものにおいて、インドの鉄道網は植民地的な詐欺だった。
 英国の<インド鉄道網の>株主達は、この鉄道網に投資することで途方もない諸額を儲けた。
 政府は、公共諸株(government stocks)の2倍の諸配当(return)を保証したが、それらは、英国のではなく、全面的にインド亜大陸の、諸税によって賄われた。
 それは、英国人達にとっては、インド人納税者の懐をかすめる、素晴らしいブラック企業(racket)だった。
 この鉄道網は、もっぱら、採集された諸資源・・石炭、鉄鉱石、綿花、等々・・を、英国人達のために諸港に運び本国に船で送って彼らの諸工場で使用するためのものだった。
 人々を運ぶことは付随的なことであり、それが植民地の諸利益に資する場合に限られた。
 その結果、インド亜大陸人達がまとめて押し込められた3等客車群は、木造のベンチ群で心地よさは皆無であり、当時でさえ、ひどい評判だった。・・・
 インド亜大陸人達は、この鉄道網で雇用されることもなかった。
 大方の見解は、「諸投資を守る」ため、この鉄道網は、ほぼ排他的に欧州人達だけが職員でなければならない、というものだった。
 信号手達と蒸気機関車群の運転と修理を行う人々はとりわけそうでなければならないものとされたが、この政策は拡張されることとなり、20世紀初においてさえ、鉄道会社の取締役から改札係に至るまでが全員白人男性達という、ばかげた水準にまで行きついた。
 彼らの諸給与や諸手当もまた、インド亜大陸の諸水準ではなく欧州の諸水準で支払われ、彼らは、概ねイギリスに戻って行った。
 <このように、>人種主義が英国の経済的諸利益と組み合わされることによって、効率性が損なわれることになった。
 諸列車を修理するために、ベンガル・・・とラージプーターナー(Rajputana)<(注6)>・・・に計2つの作業場が1862年に開設されたが、そこでのインド亜大陸人の修理工達は極めて熟達し、1878年には、彼らは、自分達自身の蒸気機関車群を設計、製造し始めた。
 (注6)ラージプートの地の意。現在のインド西部のラジャスタン州を中心とする地域。
https://en.wikipedia.org/wiki/Rajputana
 彼らの成功は、英国人達の警戒心を募らせた。
 というのも、インド亜大陸製の蒸気機関車群は、英国製のそれらと同等の性能がある上、遥かに安かったからだ。
 そこで、英国は、1912年に、インド亜大陸の作業場群が、蒸気機関車群を設計し製造することをあからさまに不可能にする法律を採択した。
 <こういうわけで、>1854年から1947年の間に、インド亜大陸は、イギリスから14,400両前後の、そして、カナダ、米国、及び、ドイツ、から、更に3,000両の、蒸気機関車群を輸入したが、1912年より後にはインド亜大陸内で製造されたものは皆無だった。
 独立してから35年後になっても、古い技術的知識がインド亜大陸では完全に失われてしまっていたため、インド鉄道網は、帽子を手にして、英国に赴き、インドで再び蒸気機関車工場を設立するために教えを乞うた。
 しかし、この物語にはぴったしの後日譚があった。
 英国の鉄道網の筆頭技術コンサルタト会社である、ロンドンにあるレンデル(Rendel)は、今では、インド鉄道網の子会社であるライツス(Rites)から、彼らに提供されるところの、インドの技術的ノウハウ(expertise)に広範に依存している、ときているのだ。」(A)
(続く)