太田述正コラム#9155(2017.6.14)
<改めて米独立革命について(第I部)(その3)>(2017.9.28公開)
「1773年11月には、コプリーは、彼が描いた一連の男達であったところの、「愛郷者達」、と、彼が描いたもう一つの一連の男達であったところの、「親英派達」、との間の公的仲介者に自身がなっていることを発見した。
それから2週間経たないうちに、ボストン港湾は巨大な冷たい茶<のゴミ>壷と化し、<彼は、>次の夏には、ついに欧州に向けて出発した。
後で一緒になると約束して、自分の妻と子供達を後に残し・・。・・・
「コプリーのように、戦争が到来した時、大部分の「アメリカ人達」は、軍事的にもイデオロギー的にも非戦闘員だったのであり、武器を取ることも諸誓約をすることも公然と否定し、自分の考えを明かさず、成り行きがどうなるのかを見守るのが最善だと見ていた。」」(α)
「著者による説明ぶりは、伝記というよりも歴史書のそれだが、彼のアイルランド生まれの両親の初期の諸人生、この二人のボストンへの移民の諸理由、その正確な年すら分かっていないところの、彼の父親の早期の死、に関する情報の希少さを踏まえれば、それは理解しうる。
あえて言うならば、13歳の時から、コプリーは、寡婦となった彼の母親と異父弟を支えなければならなかった。
<そういうこともあって、>彼の芸術的諸大志はかなりのものであったものの、<地元の>絵画市場の諸需要に束縛されざるをえなかった。
そして、この諸需要に、彼はうまく応じることができ、27歳になった頃には、ハートフォード(Hartford)<(注7)>からハリファックス(Halifax)<(注8)>に至る、肖像画家達の中で、最も引っ張りだこな存在になっていた。
(注7)現在の米「コネチカット州の中央部に位置する都市で、州都。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%83%89_(%E3%82%B3%E3%83%8D%E3%83%81%E3%82%AB%E3%83%83%E3%83%88%E5%B7%9E)
(注8)現在の「カナダ・ノバスコシア州の州都」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%AA%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9
これだけでは、決然とした若き画家<たるコプリー>にとっては十分ではなかった。
翌1765年、コプリーは、毎年開かれる、ロンドンのロイヤル・アカデミーの展覧会に最初の出展を行った。
「男の子と一緒にリス–ヘンリー ペラム(A Boy with a Flying Squirrel(Henry Pelham))」<(注9)>だ。
(注9)http://ja.wahooart.com/@@/8XYCJ4-John-Singleton-Copley-%E7%94%B7%E3%81%AE%E5%AD%90-%E3%81%A8%E4%B8%80%E7%B7%92%E3%81%AB-%E3%83%AA%E3%82%B9-%E3%83%98%E3%83%B3%E3%83%AA%E3%83%BC-%E3%83%9A%E3%83%A9%E3%83%A0- ←絵
モデルのへンりー・ぺラム(1748/49~1805年)は、コプリーの弟で彫版作家・地図製作者。兄とは違って熱烈な親英派だった。1776年に渡英。アイルランドで客死。
https://en.wikipedia.org/wiki/Henry_Pelham_(engraver)
それは、温かく、しかし、恩着せがましく受け入れられた。
彼と同じくアメリカ出身であって同時代人たるベンジャミン・ウエストは、コプリーに対し、その将来性を確保したいのなら、欧州に行って、過去の諸傑作を学ばなければならない、と助言した。
ウエストは、「ウルフ将軍の死(The Death of General Wolfe)」<(注10)>を1771年にアカデミーに出展した時に、<既に、>コプリーが夢見た栄光を手にしていた。
(注10)https://en.wikipedia.org/wiki/The_Death_of_General_Wolfe#/media/File:Benjamin_West_005.jpg ←絵
フレンチ・インディアン戦争(欧州では7年戦争)の際の、英軍のジェームズ・ウルフ(James Wolfe。[1727~59年])将軍の、1759年における、この戦争を決したところの、英軍勝利に終わったケベックの戦い(Battle of Quebec)での死を描いたもの。
https://en.wikipedia.org/wiki/The_Death_of_General_Wolfe
https://en.wikipedia.org/wiki/James_Wolfe ([]内)
田舎の(provincial)諸肖像画ではなく、叙事詩的な歴史諸絵画が、国際的な評判を得たわけだ。
茶法(Tea Act)<(注11)>が成立したことに伴う政治的騒動の増大とともに、コプリーの肖像画商売は成り立たなくなって行った。
(注11)「1773年5月10日に<英>議会で成立した<ところの、・・・英国>が<英領北米>植民地への茶の直送と独占専売権を、東インド会社に与えた法令。茶条令とも言う。・・・北<米>の13植民地に対し、東インド会社が通常の関税なしに紅茶を売ることを認めたものである。・・・その目的は、インドの凶作で破産寸前まで来ており、<欧州>の市場において競争力のない東インド会社を救済することだった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8C%B6%E6%B3%95
1773年11月に、彼は、酔っぱらった群衆が彼の義父であるリチャード・クラーク(Richard Clarke)・・茶のボイコットを尊重することを拒否した茶商人・・の自宅を灰燼に帰すのを見た。
著者の、親英派の目を通して見たこの夜、及び、(コプリーの姻族達や顧客達のような、貴族的な実業家達によって抱懐されていたところの、)イギリスとの商業的・文化的紐帯からすれば、革命期のボストンよりも、ロンドンの方が、コプリーにとって、より安全で正気な場所に見えたであろうことは明白だった。」(γ)
(続く)
改めて米独立革命について(第I部)(その3)
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