太田述正コラム#9345(2017.9.17)
<アングロサクソンと仏教–米国篇(その6)>(2017.12.31公開)
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[仏教と人間主義(印象論的説明)]
 表記について、「きちんとした説明」ならぬ、「印象論的説明」を、取りあえず行っておきたい。
 人間主義は倫理でもあるわけだが、仏教倫理(Buddhist ethics)に関する英語ウィキペディアを見ても、人間主義めいたものは何も出て来ない。
https://en.wikipedia.org/wiki/Buddhist_ethics
 実は、このことは、仏教についての一般的な説明についてもあてはまるる。
 例えば、「仏教の概要(高校倫理)」
http://www.irohabook.com/high-philosophy-buddhism
がそうだ。
 上掲の2サイトが共通に記している、「四法印」とは「釈迦が悟った真理」であり、「四諦」とは「釈迦<が教えた>悟りに至るための方法」であるところ、2サイトとも、仏教ないし仏教倫理の一般的な説明は、「釈迦が教えた悟りの境地」(・・なお、本シリーズでは、’enlightenment’を「悟り」ではなく「啓蒙」と訳している。本シリーズで紹介している本は仏教について語っているとはみなしえない、との私の認識からだ・・)、及び、「釈迦が教えた悟りを得る方法」、を説明しているだけで、仏教の、ないし、釈迦の考えの、目的であり核心であるところの、「人間主義者になって人間主義を実践する」、が抜け落ちている。
 
 「人間主義者になって人間主義を実践する」、が、「仏教ないし仏教倫理の目的であり核心である」、というのは、私独自の奇矯な説では決してない。
 ジャータカ(本生譚)は「紀元前3世紀ごろの古代インドで伝承されていた説話などが元になっており、そこに仏教的な内容が付加されて成立したものと考えられている」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%82%AB
が、その中に、人間主義の実践を説いた「薩埵王子」(a)や「尸毘王」(b)や「雪山童子」(c)のような釈迦の前世物語(注2)が頻出しており、このことが、宗教化したばかりの釈迦の教えを、僧や衆生がどのようなものと認識していたかを示している、と考えられるからだ。
 (注2)a:「薩埵王子(さったおうじ)捨身飼虎(しゃしんしこ)で知られる。『金光明経』などに説く。釈迦の前世である王子は、飢えた虎とその7匹の子のためにその身を投げて虎の命を救った。」
    b:「釈迦の前世である慈悲深い尸毘王は、ある時バラモン僧のために両眼を布施した。そのバラモン僧は帝釈天で、両眼を元に戻したという説話。なおこれは南伝の説話で、北伝では、鷹に追われた鳩を救うために、王が鳩と同じ分量の自分の肉を切り取って鷹に与えた。鷹は帝釈天、鳩は毘首羯磨天で、王の慈悲心を量った」
    c:「施身聞偈(せしんもんげ)で知られる。『涅槃経』に説く。釈迦の前世である童子が無仏の世にヒマラヤで菩薩の修行をしていると、羅刹が諸行無常・是生滅法といったので、その残りの半句を聞くために腹をすかせた羅刹のために、生滅滅已・寂滅為楽の半句を聞き、木石などに書き残して投身した。投身した刹那に羅刹は帝釈天に姿を戻し、童子の身を受け止めて、未来に仏と成った時に我らを救い給えといった、という説話。」(同上)
    
 この三つの物語中、「施身聞偈」は、人間主義の実践が悟りの手段でもあることを説いているところ、この点を踏まえることで、初めて、仏教の北伝(大乗=Mahayana)と南伝(小乗=上座部=Theravada)の違いがはっきり見えてくる。
 すなわち、悟りを求める衆生=菩薩、悟り=阿羅漢化、最高の悟り=成仏、なのだが、「釈迦が前世に菩薩であった時のようにたゆまぬ利他行に努めることで、自分もはるかに遠い未来に必ず成仏できる」とするのが北伝仏教なのだ。(注3)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%90%E4%BB%8F
 (注3)「利他行」が「人間主義の実践」でさえあったならば、私見では、この邦語ウィキペディアの説明は完璧である・・一般の衆生にとって利他行など実践不可能であることから、人間主義の誇張的表現に他ならないと見る・・のに対し、欧米での典型的説明は、’Rather than Nirvana, Mahayana instead aspires to Buddhahood via the bodhisattva path, a state wherein one remains in the cycle of rebirth to help other beings reach awakening.’といったものであって、釈迦が譬えとして用いたに過ぎないと考えられる「輪廻」概念に囚われている点、及び、「人間主義の実践」を「他者が悟りを得るのを助けること」と狭く解している点、で誤りに等しい、と断ぜざるをえない。
 ここからは、完全に私見なのだが、北伝仏教は、悟りの方法として、「四諦」よりも「人間主義の実践」の方をより重視した結果、「四諦」、就中、「正定」(しょうじょう=禅定)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E8%AB%A6
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E6%AD%A3%E9%81%93
http://www.ningenzen.jp/bousou/modules/d3blog/details.php?bid=364
という、釈迦自身が実践した悟りの方法を軽視し、念的瞑想を欠落させてしまったのに対し、南伝仏教は、自身が悟ることをもっぱら目的としたため、サマタ瞑想と念的瞑想のパッケージこそ維持したものの、「人間主義の実践」を欠落させてしまい、そのこともあってか、同じく「人間主義の実践」が欠落しているヒンドゥー教(注4)と混淆(注5)して現在に至っている、ということではなかろうか。
 (注4)多神教、一神教、無神論、の要素を持つ複雑なヒンドゥー教群が、おしなべて尊重している叙事詩たる、マハーバーラタとラーマーヤナの分析を通じて、かつて、その趣旨のことを指摘したことがある。(コラム#省略)
 (注5)そもそも、仏教は、インド亜大陸に生まれた宗教として、ヒンドゥー教の前身たるバラモン教の影響を強く受けているほか、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%B3%E3%83%89%E3%82%A5%E3%83%BC%E6%95%99
ヒンドゥー教が8世紀に生み出したタントラが、チベット仏教に導入されたし、北伝仏教一般においても、密教・・日本で最も密教を重視したのは真言宗・・の形で導入された
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%A9
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E8%A8%80%E5%AE%97
わけだが、「混淆」は、それより、更に広範な影響を受けている(コラム#省略)、という趣旨だ。
(続く)