太田述正コラム#10504(2019.4.19)
<映画評論54:ハドソン川の奇跡/三谷太一郎『日本の近代とは何であったか』を読む(その9)>(2019.7.8公開)

         –映画評論54:ハドソン川の奇跡–

1 始めに

 今年に入ってから、初めて気持ちの余裕ができ、録画したまま放置してあった2本の映画のうちの1本である表記を、昨夜、自宅におけるヤマハの本来のサラウンド環境では初めてのことですが、TVで鑑賞し、映画の内容ともども、堪能しました、 

2 『ハドソン川の奇跡』

 この映画は、2009年1月の実話である「USエアウェイズ1549便不時着水事故」
https://ja.wikipedia.org/wiki/US%E3%82%A8%E3%82%A2%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%82%A4%E3%82%BA1549%E4%BE%BF%E4%B8%8D%E6%99%82%E7%9D%80%E6%B0%B4%E4%BA%8B%E6%95%85
を、ほぼそのまま、クリント・イーストウッドがメガホンを取り、トム・ハンクス主演で映画にしたものです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%89%E3%82%BD%E3%83%B3%E5%B7%9D%E3%81%AE%E5%A5%87%E8%B7%A1_(%E6%98%A0%E7%94%BB) ※
 「ほぼ」、と書いたのは、「劇中ではまるで<機長のサリーが>容疑者のように扱われ、事故調査委員会から厳しい取り調べを受けたと描かれているが、実際は、・・・事故調査委員会での取り調べは型通りのものでしかなかった。」(上掲)からです。
 サリーは、米空軍士官学校卒で、パルデュー大心理学修士、北コロラド大行政学修士を取得し、ファントム機の操縦士や教官として、或いは、米空軍の事故調査委員会委員として活躍し、大佐で退役し、民航機の操縦士に転じた人物ですが、
https://en.wikipedia.org/wiki/Chesley_Sullenberger ☆
映画の中で、彼自身がファントム機で緊急着陸するシーンが出て来ることが象徴しているように、航空機操縦士、同教官、同事故調査委員、としての経験があったからこそ、緊急事態下で冷静沈着に不時着水させ、乗員乗客全員の命を救うことができたわけです。
 やや、論理の飛躍があることは認めますが、戦前の日本で、陸海軍出身の首相が輩出したことの必然性がこういったところにもある、と改めて感じましたね。

3 蛇足

 この映画の邦語ウィキペディア(※)が、サリーを米空士首席卒業と書いているのは、In the year of his graduation, 1973, he received the Outstanding Cadet in Airmanship award, as the class “top flyer”.(☆)という記述を踏まえたものでしょうが、この賞は、あくまでも航空機操縦技術における卓越性に対して授与されるものであり、
https://en.wikipedia.org/wiki/Superior_Airmanship_Award
間違いです。
 サリーの成績が上位の方ではあったからこそ、二つの大学に派遣されて二つの修士号を空軍当局が取らせたのでしょうが、この二つの大学はそれほど著名な大学ではありませんし、いずれにせよ、首席卒業者だったら、大佐で退役、などということはありえなかったでしょう。
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–三谷太一郎『日本の近代とは何であったか』を読む(その9)–

 こうした東西の文明的対立の図式–西が東を位置づけるオリエンタリズムの図式–が形を変えて、東にあって西に位置づけられることを求める日本が近隣の東の文明圏を植民地化することを正当化する要因となっていきます。
 日本による植民地化の発端となった日清戦争は、政府当局者や先進的な知識人たちによって東の「野蛮」に対する西の「文明」の対決として意味づけられていました。<(注4)>

 (注4)「1888年(明治21年)1月、山県は・・・当時のアジア情勢においてイギリスの進出とシベリア鉄道を経由するロシア帝国の脅威による不安定化が生じるという判断を示して<おり、>・・・朝鮮半島を諸外国の影響力から離脱させた上で日本の影響下に置くために、1890年(明治23年)3月、イギリスやドイツを媒介とした清国と日本による共同の統治構想を提起している。しかしこの構想は4年後、1894年(明治27年)11月、李氏朝鮮を清国から独立させて日本の影響下に置く方針へと修正されている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E7%9C%8C%E6%9C%89%E6%9C%8B%E6%84%8F%E8%A6%8B%E6%9B%B8
 「<福澤>諭吉が率いる「時事新報」<は、日清戦争>開戦直後の1894年7月29日に「<こ>の戦争は文野の戦争なり」と題する社説を掲載した。
 「文野」とは「文明」と「野蛮」のことだ。戦争を「文明開化の進歩をはかる」日本と、「進歩を妨げんとする」清国の戦いと位置づけた。11月には朝鮮に対しても、「文明流」の改革のためには「脅迫」を用いざるを得ず、「国務の実権」を日本が握るべきだとする社説を載せた。
 反戦主義者として有名な内村鑑三ですら、この時点では同様の認識だった。同年8月、日本は「東洋における進歩主義の戦士」で、中国は「進歩の大敵」だと訴える論文を欧米人向けに英語で雑誌に発表した。」
http://www.asahi.com/international/history/chapter02/03.html

⇒福澤は島津斉彬コンセンサス信奉者として、同じコンセンサス信奉者たる山縣と同じことを異なった表現で主張しただけであったのに対し、内村に関してだけは、この福澤、山縣両名とは違って、キリスト教徒たる自分を「文明」の「西」の一員だと思い込んでいて、三谷の指摘通りの日清戦争観を抱き、それを吐露した、ということでしょう。
 問題は、東京大学法学部(経済学部分離後は経済学部も)において、内村鑑三の札幌農学校同期生の新渡戸稲造、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E6%B8%A1%E6%88%B8%E7%A8%B2%E9%80%A0
内村のキリスト教における弟子であるところの、矢内原忠雄(東大総長)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%A2%E5%86%85%E5%8E%9F%E5%BF%A0%E9%9B%84
や南原繁(その後任の東大総長)、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E5%8E%9F%E7%B9%81
というキリスト教徒群が、内村的な世界観を無批判的かつ通説的に継承して行き、(ここから先は非キリスト教徒達ですが、)この系譜に、経済学部で内村鑑三に師事したところのイギリス心酔者にしてドイツ社会科学心酔者たる大塚久雄、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%A1%9A%E4%B9%85%E9%9B%84
や、自称マルクス・レーニン主義者ながら南原に「同志」と見抜かれて法学部助手に採用されたところのドイツ社会科学心酔者たる丸山眞男、が位置し、更にこの丸山の弟子に三谷らが位置づけられる、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%B8%E5%B1%B1%E7%9C%9E%E7%94%B7
ことです。
 このことから、東大の学問全体が欧米学問翻訳学的であったことに加え、法学部(と経済学部)に至っては、それが宗教的/イデオロギー的な欧米崇拝者達の巣窟であり続けてきたことによって、その学問に一層甚だしい歪みが生じたまま現在に至っている、と私は考えているのです。(太田)

(続く)