太田述正コラム#11410(2020.7.14)
<映画評論65:英国総督 最後の家(その2)>(2020.10.5公開)

 要するに、(少なくともこの映画に関しては、)米国やインドの映画評のレベルが、どちらも、英国のレベルよりも格段にそん色があった、ということです。
 インドの諸映画評に関しては、日付的に、それが判明するより前に書かれているとはいえ、パキスタンがこの映画を上映禁止にした
https://www.ndtv.com/entertainment/partition-1947banned-in-pakistan-reveals-gurinder-chadha-why-asks-twitter-1739876
ような内容だったわけですから、パキスタンでのこの映画の反響を心配する的な記述がどこかに見られてしかるべきなのに、全くそんな気配もないものばかりであった、ということは、インドの識者達は、英領インド帝国の同じ臣民が作った国であって独立時以降、何度も戦争をした相手国たるパキスタンについて、何も分かっていないのではないか、と思わざるをえませんでした。
 米国の各映画評に関しては、全球的覇権国を代表する2紙が、インド亜大陸が人口的・地政学的に重要であって、かつ、インド系の人々が多数米国のIT産業等で活躍しているというのに、インド亜大陸の現状を規定したところの、印パ両国の分割独立「事件」、について、(パキスタンで予期される反響まではともかくとして、)気の利いたこと一つ書けないのかよ、と思った次第です。
 では、英ガーディアンの諸映画評はどう優れているのでしょうか?
 私がURLを紹介した三つの同紙記事は、一番目と三番目のが映画評で、二番目は一番目の映画評に対する、この映画の監督からの反論です。
 それでも、一紙で同じ映画に二つの映画評を載せたのは、(英国はインド亜大陸の旧宗主国でその分割にも責任があり、かつまた、インド亜大陸出身者が多数英国に住んでいて活躍している者も多いとはいえ、)ガーディアンがこの映画の重要性を認識したからこそであり、そこがまず評価されます。
 で、最初の映画評を依頼した相手が、ファーティマ・ブットー(Fatima Bhutto。1982年~)
https://en.wikipedia.org/wiki/Fatima_Bhutto D
だった、というのが面白い。
 彼女は、パキスタンの大統領、首相を歴任し、軍事政権によって処刑された、ズルフィカール・アリー・ブットー(Zulfikar Ali Bhutto。1928~1979年)
https://en.wikipedia.org/wiki/Zulfikar_Ali_Bhutto E
が祖父、また、首相を務め、その後暗殺された、ベーナズィール・ブットー(Benazir Bhutto。1953~2007年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%BC%E3%83%8A%E3%82%BA%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83が叔母、更に、その弟のムルタザ・ブットー(Murtaza Bhutto。1854~1996年)
https://en.wikipedia.org/wiki/Murtaza_Bhutto G
が父、という人物です。
 ベーナズィールはハーヴァード大とオックスフォード大をそれぞれ卒業しています(F)が、ムルタザもハーヴァード大を卒業し、オックスフォード大で修士号を取り、更に、欧州で博士号に挑戦中に、パキスタン軍によるクーデタ計画で父親の政権が危機に瀕しているとの情報に接し、学業中断に追い込まれ、その後、帰国中にパキスタン警察によって殺害されています(E、G)。
 そして、ファーテイマ自身は、バーナード単科大(コロンビア大)卒かつロンドン大修士で、独身で無宗教でカラチ在住の英語ノンフィクション/フィクション作家をしています(D)。
 ガーディアンが彼女に映画評を書かせたのは、この映画の反英国性もさることながら、それ以上に問題のあるところの反パキスタン性に気付き、ファーティマにそのことを指摘させようとしたからだと思われます。
 その期待にファーティマは部分的には応えたけれど、全体としては応えることができませんでした。
 というのは、彼女は、ガーディアンが彼女に指摘させようとしたところの、前述したこの映画の絶対少数説依拠の点におぼろげながら言及しつつも、別段反パキスタン的含意のない映画中の様々なシーンを、自身の誤解や無知に基づいて反パキスタン的だと罵倒(A)を繰り返すことで、この映画評そのものの信憑性を失わせてしまったからです。
 そして、恐らくは、同様、ガーディアンが予め書かせることを最初から予定していたのでしょうが、この映画の監督のグリンダ・チャーダが、上記映画評に対する反論コラムを書いた結果、ガーディアンの期待に反し、真の論点がぼかされたまま、ファーティマが挙げた諸シーンに関して論駁がなされ(B)、チャーダに軍配が上がった形になってしまったのです。 
 そこで、(もともと、彼による執筆が予定されていた可能性は排除できませんが、)このままではいけない、と、ガーディアンは慌てたのでしょうね。
 スコットランド系イギリス人で「高卒」のたたき上げ敏腕ジャーナリストにして著述家である、イアン・ジャック(Ian Jack。1945年~)
https://en.wikipedia.org/wiki/Ian_Jack
に白羽の矢を立てて、二番目の映画評を書かせ、この映画に対して、フェイク学説に拠っているという点に絞った、し烈な批判を行わせた(c)のです。
 「高卒」の男性が、「大卒」の1人の女性と「院卒」のもう1人の女性を、もろとも、刀を一閃してなで斬りにした、という構図ですが、この構図もまた、ガーディアンが皮肉を込めて仕組んだのではないか、と、私は勘ぐっています。
 とまあこういう次第であり、独立後70年も経っているというのに、インド人識者達は言うに及ばず、イギリスで大学レベルの教育を受けたインド系イギリス人もイギリスで大学院レベルの教育を受けたパキスタン人も、二人ともせっかく無宗教者になっているくせにそのこともまたクソの役にも立っておらず「宗教的」偏見に凝り固まっていて、ことごとく識者失格としか言いようがない、という調子では、支那とは違って、インド亜大陸の将来は暗澹たるものがあります。
 そのことごとくの原因は、英国のインド亜大陸統治のひどさに帰せしめられる、と言い切りたいところですが、(彼らが征服されてしまい、しかもこの統治に甘んじてしまった、ということを含め、)果たしてそれだけなのだろうか、という疑念が、改めて私の心中にわだかまりつつあります。
 最後に、イギリスは腐っても、その、原住民系の識者達のかなりの部分には、鯛らしいところがまだ残っているけれど、米国の識者達は、もはや、日本の現在の識者達に近い、お粗末な存在に堕してしまっているようだ、という私の感想を付け加えておきます。

(完)