太田述正コラム#1259(2006.5.27)
<ルソーの正体(その2)>
イギリスでルソーの求めるままに何度も住む所を見つけてやったほか、王室からルソーのためにカネを引き出そうとまで腐心したヒュームに向かって、次のような手紙を送りつけます。
「君は猫を被っていた。今、私は君のことが分かったし、そのことは君も気付いているだろう。君は私の亡命を手伝うためにイギリスに連れてきたことになっているが、実は私を貶めるのが目的だったのだ。<そのために、君は私宛の手紙を盗み見た上、私の原稿類を盗もうとした。>君はそのことに、君の心にふさわしい情熱をもって、そして君の才能にふさわしい手練手管をもって没頭したのだ。」
(本当はルソーの面倒を見るのがいやだったのにその気持ちを殺してルソーをイギリスに同道した)ヒュームは激怒し、二人の共通の友人達に対し、ルソーは、「怪物のごとき恩知らずにして、凶暴な逆上者だ」、「長らく狂人もどきであったがついに狂人になった」等と書きつづります。
対してルソーは、イギリスに一緒に向かう途中、ヒュームが寝言(フランス語)で「ルソーはオレのものになった」と言った、「ヒューム氏は私ことを悪漢中の最低、と言っているらしいが、こんな言葉には返す言葉を知らないが、このことこそ、私が彼の言うような人間ではないことを物語っている」等と再反論しました。
英国王のジョージ3世、アダム・スミス、ボズウェル(James Boswell。1740??95年。スコットランド人でサミュエル・ジョンソンの伝記作家として有名)、デービッド・ガリック(David Garrick。1717??79年。著名なイギリス人俳優・劇作家・演出家)、ディドロー、ドルバッハ、ダランベール、ヴォルテールらがこの「論争」に否応なしに巻き込まれます。
やがて、この二人の著名人の悪口雑言の投げつけ合いは、イギリスの新聞紙上やクラブやコーヒーハウスで面白おかしく取り上げられるところとなり、フランスではこの話が本になって出版されます。
大方の反応は、ルソーは確かに恩知らずだが、ヒュームも迫害されている亡命者に対しもう少し寛容であってよい、といったところであり、ヒュームにとっては余りうれしい反応ではありませんでした。
典拠としたガーディアンとNYタイムスの書評子は、次のようにヒュームとルソーを対比させ、二人の仲違いは当然だったとしています。
「後から振り返ってみれば、この二人が性格的にも知的にもうまく折り合っていけるわけがなかった。ヒュームは理性・疑い・懐疑の人であったのに対し、ルソーは間隔・疎外・想像力・確実性の人だった。また、ヒュームが非冒険的で穏和な外見をしていたのに対し、ルソーは本能的に叛乱好きだった。しかも、ヒュームは楽観主義者だったがルソーは悲観主義者だった。ヒュームは社交的でルソーは孤独を愛した。ヒュームは妥協を好んだがルソーは対立を好んだ。スタイルにおいても、ルソーはパラドックスを楽しんだがヒュームは明晰性を尊んだ。ルソーの言葉は花火のように華々しく感情的だったがヒュームの言葉は真っ正直で冷静だった。」(ガーディアン)
「ひどく頑固でもったいぶっヒュームと、いつも不平を言い、その<自伝の>「告白」を「生まれ落ちたことが私の最初の不幸だった」から始めたルソーは、あらゆる点で対蹠的な性格とイデオロギーの持ち主だった。」(NYタイムス)
しかも、NYタイムスは、「まっ正直な(unhinged)ヒュームは経験論者としては落第だった。他方ルソーは、様々な支援者に支えられながら彼らとの「社会契約」を守らなかったし、自然との調和の下で生きることもしなかった」と両者をともに皮肉っています。
世間というものは往々にして、文学者で音楽家でもあったルソーのような芸術家肌の人間には甘いものですが、私は、二人の「論争」当時の世論も、現在の両紙の論評も、公平なようでいて、ルソーに甘すぎると思います。
18世紀末以降、欧州、そして世界に惨状をもたらした思想はルソーに発するのであり、被害妄想で恩知らずの人格破綻者たるルソーにふさわしい邪悪な思想だったからこそ、世界に惨状がもたらされた、と私は思うのです。
ルソーという人はともかく個性の強い人だったんですね。
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