太田述正コラム#12622006.5.28

<キッシンジャーの謎(その1)>

1 始めに

 立て続けに、キッシンジャー(Henry A. Kissingerの昔の発言が公開されたので、ご紹介しがてら、かるーくキッシンジャー論を展開してみましょう。

2 中共に媚びたキッシンジャー

 1972年6月22日に、ニクソン大統領の安全保障担当補佐官だったキッシンジャーは、中共の周恩来(Zhou Enlai)首相に、(北爆を含め、南北ベトナムで米軍が北ベトナム/ベトコンに対して猛攻をかけていた最中に、)「もしわれわれが支那の共産主義政府と共存できるのなら、インドシナでもそれを受け入れることが可能なはずだ」と語ったことが、このほど明らかになりました。

 これは、米軍が南ベトナムから撤退してからしかるべき期間を置けば、北ベトナムが南を併合してもかまわない、と示唆したものと考えられています。

 キッシンジャーは、ニクソン政権としては当時、ソ連に対抗するため、中共に接近しようとしており(注1)、自分も中共向けにこのような媚びた発言を行ったが、南ベトナムを放棄するつもりは全くなかったのであって、放棄せざるを得なくなったのは、その後の米国内の政治力学のせいだ、と弁明これ務めていますが見苦しい限りです(注2)。

 (注1)キッシンジャーは1971年の7月10月に中共を秘密訪問して周と会談し、1972年2月のニクソン訪中による米中首脳会談(ニクソンと毛沢東(Mao Zedong))を実現した。

 (注21973年にパリ平和協定が締結され、北ベトナムは南ベトナムへの軍事介入を止め、米軍は南ベトナムから撤退することとされた。米軍は協定に従って撤退したが、北ベトナム軍の攻撃で1975年4月に南ベトナム政府は打倒され、間もなく南ベトナムは北ベトナムに併合された。

 当然北ベトナムにも伝えられるという前提でキッシンジャーは周に対し上記発言を行ったはずであり、何も知らなかったノルウェーの選考委員会がノーベル平和賞をパリ平和協定の当事者であったキッシンジャーと北ベトナムのレ・ドクトの両名に授与したいと発表したとき、厚顔無恥にもキッシンジャー(だけ)がこれを受けたことには開いた口が塞がりません。

 今にして思えば、レ・ドクトは早晩北ベトナムが南ベトナムを武力統一するであろうことを知っていたから平和賞を辞退したのではなく、パリ平和協定が米国と北ベトナムの共謀の下で国際社会向けに虚偽表示をした仮装行為であることを知っていたから辞退したに違いないのです。

(以上、事実関係はhttp://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2006/05/26/AR2006052601926_pf.html(5月28日アクセス)、及びhttp://en.wikipedia.org/wiki/Henry_Kissinger(5月29日アクセス)による。)

3 日本を侮辱したキッシンジャー

 同じく1972年のことですが、8月に日本の田中首相がニクソンとハワイで会談する直前、キッシンジャーは、当時の駐ベトナム米国大使のバンカー(Ellsworth Bunker)らに向かって、次のように語ったことが明らかになりました。

 「<田中首相が中共との国交関係樹立のために訪中することになったというが、>裏切り者の売女(sons of bitches)中の極めつきがジャップ(Japs)だ。中共との関係正常化を不謹慎なほど大あわてでやろうとした上、日本の旗日(秋分の日のことか(太田))に訪中させて欲しいと言ったらしい。」

 この話を紹介したAFP電は、キッシンジャーが怒ったのは、一年前に台湾は国連から追放されていたものの、台湾との関係に配慮してまだ中共との国交樹立にまでは踏み込めなかった米国の外交政策に同盟国の日本が挑戦したからであることは明白だ、としています(注3)。

 (注3)結局訪中した田中は、9月27日に毛沢東と会談し、29日に日中は国交を樹立する。ちなみに、米中が国交を樹立するのは1979年になってからだ。

 同時にAFP電は、キッシンジャーのこのような口調は、彼が日本という社会をよく理解できなかったために、しばしば日本に対して敵対的な姿勢をとったことを考えると不思議ではない、としています。

(以上、http://www.taipeitimes.com/News/world/archives/2006/05/28/2003310410(5月29日アクセス)による。)

(続く)