太田述正コラム#13922(2023.12.21)
<映画評論99:ストーリー・オブ・マイ・ワイフ(続)>(2024.3.16公開)

私はこう思います。
 「船長のヤコブは友人と、店に最初に入ってきた女性と結婚するという賭けをする。現れたのは<セドゥ演ずる>リジーという美しい女性で、ヤコブは初対面の彼女に結婚を申し込む。そして週末、ヤコブとリジーは2人きりで結婚の儀式を行う」なんてことは、現実には到底ありえないことですよね。
 つまり、少なくともこの時点から、既にヤコブの夢が始まっている、ということになります。
 では、その夢はいつ終わったのか?
 映画の最後に近い場面で、ヤコブはリジーの姿をバスの中から目にし、彼女の親族の女性にその旨を電話したところ、リジーが二人が離婚した直後(7年前)に既に死去しているということを聞き、それが幽霊であったことを知るのですが、幽霊などこの世に存在しない以上、映画の最後までヤコブは夢の中にいたことになります。
 「夢の役割として「シミュレーション仮説」があります。ゲームの夢、手術の夢、試験の夢など、詳細はバラバラでも時代ごとに大きなテーマの共通性があり、これらの課題を乗り切ることには進化的な価値があります。ヒトは集団で生きる動物ですので、適応性を高めるために、夢で危機対応のシミュレーションをしているとも考えられています。」」(コラム#13921)という仮説が仮に正しいとしたら、このヤコブの夢は、中年になり、社会的にそれなりに成功を収めた男が結婚を考え始め、夢の中でそのシミュレーションをやってみた、ということになりそうですが、夢については何も分かっていない
https://www.suimin.net/sleep/mechanism/cycle/column03/
というのが本当のところでしょう。
 夢に筋も思想もない、と、私は自分自身の夢体験から考えています。
 (私の場合、朝方に、就寝する前に考えあぐねていたことが閃いたように解けることが再々あるところ、それは、レム睡眠での夢
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO83023620Q5A210C1000000/
の中でのことというよりは、半覚醒状態でのことなのだと思います。
 私は、その都度、できるだけ、起き上がって解けたことをメモっています。
 時々、メモるのをサボってしまいますが・・。)
 だから、この映画、基本的には、私の考えるところの宮崎駿アニメと同類の映画であって、筋も思想も無茶苦茶だが映像の素晴らしさで魅せているのです。
 この映画の筋の無茶苦茶さは、例えば、リジーが幽霊になった、つまりは、死んだのがいつか、すら定かではないことです。
 二人が結婚してからそれほど時間の経っていないパリ時代のこと、警察からの手紙がリジー宛に届いたので、ヤコブが何かあったのかと尋ねた時のリジーの答えに疑問を持ったヤコブが警察を訪れ、リジーの夫であると名乗ると、まず、一杯、酒でも飲まないと(聞くに耐えないぜ)、と警官が言い、すぐに場面が切り替わって、家に戻ったリジーにヤコブが警察に行ってきたと話し、どんな話だったか、とリジーが聞いたのに対し、調書を紛失してしまったので事件はお終いだとさ、的なウソを答えるのですが、私は、(全ては夢の中ですが、)リジーが事故か事件で亡くなり、身分証を身に付けていたので、本人確認ができ、警察が、彼女の関係先にそのことを知らせるべく、親族の他に念のために彼女の住所宛にも手紙を送ったのである、と、受け止めました。
 (くどいようですが全てあくまで夢の中の話ながら、恐らく、二人は事実婚だったのでしょう。)
 仮にこの「解釈」が正しいとすれば、離婚直後などではなく、既にこの時点からリジーは幽霊だった(死んでいた)ということになるのですが、それもまた曖昧模糊としています。
 夢だから当たり前ですが・・。
 ここまでくると、この映画のテーマは、現代においては、結婚それ自体が夢のような曖昧模糊としたものになってしまっている、ということなのだ、という気がしてきました。
 家の存続などどうでもよくなり、バースコントロールができ、子供を持つかどうかが自由に決められるようになった現在、そして、子供を持つことが必ずしも幸福をもたらすわけではないという認識が常識化した現在、かつまた、出会い系サイトやAVが普及し、かつ人生が長くなった現在、事実婚でなければ税制上等のメリットは得られるけれど、結婚の意味、意義が曖昧模糊化するのは当たり前ではないのか、と。

(完)