太田述正コラム#13922(2023.12.21)
<檀上寛『陸海の工作–明朝の興亡』を読む(その2)>(2024.4.17公開)

 「・・・朱元璋<(注4)>の台頭・・・

 (注4)1328~1398年。皇帝:1368~1398年。「廟号は太祖。年号により洪武帝という。貧しい佃農(でんのう)の家に生まれたが、1344年、淮河一帯を襲った飢饉と疫病のため、親兄弟を失った。そのため皇覚寺(こうかくじ)に入って出家し、数年間托鉢をしながら各地を放浪した。1351年紅巾の乱が起こり、各地で呼応して蜂起したが、翌年郭子興(かくしこう)も濠州(ごうしゅう)(安徽省鳳陽(ほうよう)県)で反旗を翻した。朱元璋は郭子興の軍に参加、やがて郭に認められて、その養女馬氏(後の馬皇后)と結婚した。1355年郭子興が死ぬと、かわって郭軍の指揮権を掌握し、紅巾軍の一部将となった。彼のもとには同郷の湯和(とうわ)、徐達(じょたつ)や李善長(りぜんちょう)らが集まった。この年、朱元璋は揚子江を渡って太平路をとり、翌56年には集慶路(後の応天府、南京(ナンキン))を占領した。以後、彼は応天府を根拠地として、周辺に勢力を拡大していった。当時、紅巾軍の本軍韓林児(かんりんじ)、劉福通(りゅうふくつう)は元軍の攻撃にさらされ苦しんでいたが、朱元璋は武昌に拠った陳友諒(ちんゆうりょう)、蘇州(そしゅう)に拠った張士誠(ちょうしせい)、台州に拠った方国珍(ほうこくちん)らと対抗して、覇権を争った。1363年鄱陽(はよう)湖で陳友諒を破って、これを殺した。1364年彼は自立して呉王と称し、1366年それまで正朔(せいさく)を奉じていた大明王韓林児を揚子江で溺死させた。1367年強敵張士誠の本拠蘇州を奪い、方国珍を投降せしめた。こうして、揚子江の南北をことごとくあわせた朱元璋は、1368年応天府で帝位につき、国号を明と定め、年号を洪武と決めた。これ以後、一世一元と定められた。皇帝となった彼は、四方に軍を派して、まだ支配下に入っていない地方を平定した。とくに北方に対しては、徐達らの大軍を派遣して、元の都、大都(北京)を占領し、元の順帝をモンゴル高原に追い返した。その後も何度か大軍を派して元の残存勢力を討ち、1388年にはほとんど全軍を滅ぼした。」
https://kotobank.jp/word/%E6%9C%B1%E5%85%83%E7%92%8B-77657
 「韓林児<(?~1366年)は、>・・・白蓮教の指導者であった父の韓山童は北宋の徽宗皇帝の八世の孫を称し、信者の劉福通らとともにモンゴルの支配に抵抗して挙兵を試みた(紅巾の乱)。しかし、挙兵直前に計画が露顕し、韓山童は処刑されてしまう。韓林児は母の楊氏とともに山間に逃れた。
 劉福通らは潁州で挙兵。徐寿輝や郭子興らも挙兵し、白蓮教徒は一大勢力となる。・・・1355年・・・、劉福通は碭山に隠れ住んでいた韓林児を探し出し、白蓮教勢力の旗頭として擁立した。
韓林児は父の韓山童の遺志を継ぐ形で、亳州で小明王(韓山童を明王と称した。皇帝に同じ)を称し、国号を大宋(宋)、年号を「龍鳳」と定め、母の楊氏を皇太后とした。「宋」を再興することによって、元に抑圧された漢民族の支持を得る狙いもあったと考えられる。
 全国で反乱を続ける紅巾軍・白蓮教徒の名目上の総帥となったが、実際には丞相となった劉福通の傀儡であり、また紅巾軍内部も陳友諒・郭子興などは独立傾向を強め一枚岩とは言えなかった。元軍に攻められ、いったん安豊へ逃れるが、・・・1358年・・・、劉福通は北宋の都であった汴梁を落とし、5月韓林児を迎え入れて都とした。しかし・・・1359年・・・、元のチャガン・テムル(察罕帖木児)・ボロト・テムル(孛羅帖木児)ら討伐軍に都を囲まれ、韓林児・劉福通主従は再び安豊へ逃亡し、宋軍の勢威は失墜した。
 ・・・1363年・・・、平江路を拠点として勢力を拡大していた張士誠の軍に攻められ、張士誠軍の武将の呂珍の攻勢により劉福通は敗死。韓林児は郭子興の死後その兵力を受け継いだ呉国公朱元璋に救援を求めた。朱元璋は自ら兵を率いて呂珍を破り、韓林児を徐州へ移送した。・・・1364年・・・朱元璋は呉王を称し、同じく呉王を名乗る張士誠とは不倶戴天の敵となった。
 ・・・1366年・・・、朱元璋は自らの本拠地の応天府へ韓林児を呼び寄せたが、その途中瓜歩に船が転覆し韓林児は溺死した。一説では朱元璋の命を受けた部将の廖永忠に暗殺されたともいう。以来、朱元璋は白蓮教勢力から離れ、1367年張士誠を破って江南を統一、さらに1368年には応天府で皇帝に即位し、明を建国する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9F%93%E6%9E%97%E5%85%90

 明の国号についてはマニ教の「明王出世」思想の影響だとか、南方を意味する「朱明」から採用したとか、あるいは『易』の「大いに終始を明らかにす(大明終始)」に基づくとか諸説があり、いまだ定説を見ていない。・・・」(4、11)

⇒「明教(マニ教)・・・と弥勒信仰が習合した白蓮教は、元末に紅巾の乱を起こし<た>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%8B%E6%95%99
ところ、朱元璋は、建国直前まで「大明王韓林児<に>・・・正朔(せいさく)を奉じ<(注5)>ていた」(「注4」)こともあって、紅巾軍・白蓮教徒を誑かしたり宥めたりするために明という国号を選んだ、と考えるのが自然であり、著者がどうしてそう考えないのかがむしろ私には不可解です。

 (注5)「天子の統治に服する。臣下となる。」
https://kotobank.jp/word/%E6%AD%A3%E6%9C%94%E3%82%92%E5%A5%89%E3%81%9A%E3%82%8B-545079

 なお、皇覚寺の仏教の宗派は分かりませんでした。
https://zh.wikipedia.org/wiki/%E9%BE%99%E5%85%B4%E5%AF%BA_(%E5%87%A4%E9%98%B3) (太田)

(続く)