太田述正コラム#13940(2023.12.30)
<檀上寛『陸海の工作–明朝の興亡』を読む(その3)>(2024.3.26公開)

 「・・・かつて20世紀半ばに中華人民共和国が誕生した頃、元明革命は満州(マンジュ)族の清朝を倒した辛亥革命と並んで民族革命だとされ、朱元璋も民族の英雄とみなされていた。
 アヘン戦争以来の西洋や日本などの列強の侵略を撥ね退け、ようやく解放を勝ち得た新中国の息吹が、そのまま歴史的評価にも反映されたものであった。
 たしかに元末の反乱には、民族革命的な要素がないではない。
 白蓮教主韓山童が宋の徽宗八代目の子孫だと主張したり、韓林児が大宋国を建てて宋の旧都開封を首都にしたりしたのも、元に倒された宋の再興を掲げて、漢民族の民族主義を鼓舞するためである。
 この意識が元明革命の原動力となったことは否めない。
 だが注意すべきは、朱元璋は一度として漢民族国家の復興を主張したことはないことだ。
 彼が唱えたのは中華<(注6)>の回復であって、漢人国家の再興ではなかった。

(注6)「華夏(かか)とは、漢民族の間に存在する中華思想において、<支那>及び中華文化のことを表現する歴史民俗用語である。この用語は元来、新石器時代後期および青銅器時代初期の、現代の漢民族の祖先であった農業部族のことも指しており、現在でもこの用法で用いられることもある。この概念は、漢民族の自らの祖先に対する礼賛に由来している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%AF%E5%A4%8F
 「中華という名称は「華夏」という古代名称から転じて来たものともいわれる。古代<支那>の呼称は夏、華、あるいは華夏といわれていた。「華」ははなやか、「夏」はさかんの意で、<支那>人が自国を誇っていった語であった。そこから、文化の開けた地、都(みやこ)を意味した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E8%8F%AF%E6%80%9D%E6%83%B3

⇒「注6」前段は、「中華」は「漢民族」すなわち「漢人」が自分達の文化を表現するために生み出した概念である、と、指摘しており、そうでないかのような著者の「中華」の受け止め方はおかしいですし、また、そもそも、著者が、朱元璋が「中華の回復」を「唱えた」ことを裏付ける典拠を付していないのも困ったことですが、仮にそれが事実だったとしても、朱元璋が「漢人国家の再興」の意味で使った可能性があるわけです。(太田)

 異民族でも中華の礼・義すなわち中国文化を体得すれば、漢民族と同様、中華の民として待遇するという。
 滅満興漢の民族主義を鼓吹した孫文も、中華民国成立後には中華民族の「五族共和」を主張せざるを得なかった。
 中華民族とは個々の民族を止揚したところに成り立つ上位の概念である。
 多民族国家中国にとり中華という概念は、どうやら魔法のような効用を持つようだ。」(12)

⇒「1949年、毛沢東らは中華人民共和国を建国し、中華民国に続いて、「中華」を正式な国名に使用した。漢民族以外の民族もあわせて中華民族とし、実質的には民族浄化ともいえる漢民族との同化政策を進めており、元々は政治的共同体(ネーション)であった東トルキスタンやチベットなどでは反発も起きている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E8%8F%AF%E6%80%9D%E6%83%B3
ということから、中共もまた、「異民族でも中華の礼・義すなわち中国文化を体得」させることによって、「漢民族と同様、中華の民として待遇する」政策、要は漢人化政策、を追求してきている以上、中共当局のかかるスタンスに照らしても、著者の「中華」の受け止め方はおかしい、ということにならざるをえません。
 いずれにせよ、しばしば私が指摘してきたように、中共当局のかかる政策のアキレス腱は、モンゴル国・・独立外モンゴル・・が存在すること、すなわち、不完全な中華の民(漢人)たるモンゴル民族の中に漢人化を拒み、漢人化が事実上不可能な人々が存在すること、です。(太田)

(続く)