太田述正コラム#13994(2024.1.26)
<映画評論114:始皇帝 天下統一(続x20)>(2024.4.22公開)

 「韓非は、商鞅<(前出)>の「法」・申不害<(注34)>の「術」・慎到<(注35)>(しんとう)の「勢」といった先人の思想を体系化し、法家思想を完成させた。」
https://www.klnet.pref.kanagawa.jp/uploads/2020/12/kanpishi.pdf (下の[]内も)

(注34)しんふがい(?~BC337年)。「鄭の人。韓の昭侯の宰相となって富国強兵に努め国勢を強めた。韓は戦国七雄の中で最弱であり、絶えず近隣の魏と秦の圧迫に苦しんだが、彼が宰相の間は侵略をうけることはなかった。彼の思想には黄老思想の影響があったとされており、[言説と実功との一致を求める臣下統御の術<である>・・・刑名学<、及び、>]君主が自身の権力意志を知られないように”無為”の姿勢で独裁を行う”術”[(法術)]を説いたとされる。それは後に韓非の法家思想に影響を与えたとされる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B3%E4%B8%8D%E5%AE%B3
https://kotobank.jp/word/%E5%88%91%E5%90%8D-489290 ([]内)
 (注35)しんとう(?~?年)。「趙の出身で、のち田斉の稷下に遊び、黄老道徳の術を学び、・・・道家と法家との折衷的な思想を唱えたとされ<る。>・・・
 儒家の説く忠臣や有徳者〈<の>賢・智といった個人的な才能〉による政治を否定して、〈勢・法といった客観的統治手段である君主の権勢や地位に依存すべきだというもの〉・・・であった。一方で、民に自発的行動能力があることを認め、為政者はことさらな作為を施さなくても自動的に世界が統治されていくという社会体制を理想とする。・・・
 ここから、慎到の思想は、道家的特色があると評されることもある。・・・
 慎到の思想は、商鞅の思想や申不害の思想とともに韓非へ継承された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%8E%E5%88%B0
https://kotobank.jp/word/%E6%85%8E%E5%88%B0-82301 (〈〉内)

 「<韓非は、>人民は支配と搾取の対象であり,君主に奉仕すべきものとされる。〈君主と人民の利害は相反する〉として,この観点から,厳格な法で人民を規制すべきを説くが,そのいわゆる法治主義は,法と術と勢の三者を強調する。君主たる者は臣下を統御しうる勢を利用し,客観的な法と,胸中にかくす術とを兼ね用いれば,臣下を自由自在に操縦することができる。その際には,賞と罰の二柄(にへい)が有効な要具となる。
 [要するに君主と臣下の関係は、信頼関係ではなく利害関係において成立すると考えたのである。「形(実質=職分)」と「名(名目=職名)」を一致させ、一致しない場合は処罰する・・<すなわち、>官職を越えれば死罪になり、その通りにできなければ処罰される。その職分の範囲を守り、言うことが業績と一致して正しければ、臣下は仲間を作り一緒になって悪だくみをすることができない・・という、いわゆる「形名参同(けいめいさんどう)」の思想は、君主が「法」を冷厳に適用し支配を確立するためには必要な考え方であったと言えるだろう。]
 その法治主義は法の権威を確保するために,いっさいの批判を封ずる。現在の法を批判する者は,多くの場合先王の法をもちきたって,両者を対置して論評する。韓非にとってまず抹殺さるべきは先王の法であった。<すなわち、韓非は、>先王主義を否定<し、後王主義を唱える>。
 法治の妨害者として五蠹<(ごと)>をあげ,その撲滅をはかる。蠹は木を食う虫で,五蠹は,五種の社会を害する者の意。その
第1は,学者-道徳を唱えて法を批判し,無用の弁説をもてあそぶ。
第2は,言談者-デリケートな国際関係を利用して,詭弁を弄し君主をまどわす。
第3は,俠客-私の節義のために法禁を犯し,然諾を重んじて死を軽んずる。
第4は,君主の側近。
第5は,商工業者。保護育成すべきものとして,軍人と農民をあげる。それは国力の増強に直接寄与し,知能が低く単純なので,権威に弱く御しやすい。つまり,知的な面での愚民と経済の面での弱民とは,君主の支配が容易なので,国家主義の歓迎するところである,という。」
https://kotobank.jp/word/%E9%9F%93%E9%9D%9E%E5%AD%90-49522

⇒焚書坑儒につながる部分はさておくとして、商工業の抑制と軍人/農民愚民化の提唱は韓非の恥部と言うべきでしょう。
 天下統一過程と統一後に、李斯が手掛けた諸事業は、そのほとんどが韓非が掲げた政策の実施と言えそうですが、土木事業・・万里長城、華中と嶺南を南北に結ぶ霊渠
https://www.y-history.net/appendix/wh0302-007.html
は、それぞれ、軍事防勢、軍事攻勢のためのものであり、馳道の整備は始皇帝の天下巡遊のためであり、巨大な阿房宮/始皇帝陵の建設は始皇帝個人の生前と死後の贅沢な生活のためでした
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A7%8B%E7%9A%87%E5%B8%9D 前掲
・・の全部または一部を、献策したのも李斯だったのか、始皇帝自身が考えたことだったのか、は不明であるところ、どうやら韓非とは無関係であり、言い出しっぺが誰だったのかを、これら土木事業が民衆にもたらした人的物的負担の重圧が秦帝国の早期瓦解をもたらしたとされていることもあり、是非とも知りたいところです。(太田)