太田述正コラム#13996(2024.1.27)
<映画評論114:始皇帝 天下統一(続x21)>(2024.4.23公開)

 映画「始皇帝 天下統一」で、私が鑑賞した最後あたりの第25回には、「<秦王嬴政の義祖母の>華陽太后が推薦する楚の娘羋華を妻として迎えたい嬴政だが、母趙姫が呼んだ斉の王女離秋を断れずに苦悩する。この結婚をめぐる権力闘争が表面化する中、李斯は斉にも楚にも義理が立つ策を考案し、両者を同時に娶ることを進言する。」、第26回には、「政は楚の羋華と斉の離秋を同時に妻として迎えることにしたが、後宮が原因の混乱を避けるため、王妃を立てないと宣告する。」という場面が出てくるのですが、このTV映画では珍しく、羋華も離秋も架空の人物のようです。
 離秋の方は、最終回の第78回にも、「ついに天下には秦と斉の2国のみとなった。秦王嬴政の夫人 離秋は兄である斉王に対し降伏を説得するため斉に向かう。斉の公子田冲と共に投降を促すも、丞相后勝に妨害され斉は秦に対抗することを決める。」という形で登場するようです
https://play.google.com/store/tv/show?id=tq1jOxadaPM.P&cdid=tvseason-cRyzl-6eh50.P&pli=1 (以上の「」内)
が、斉の滅亡に係るウィキペディア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%89%E6%94%BB%E7%95%A5
中に、そんな話は一切登場しません。

⇒一国だけ残った斉が無謀にも秦に武力抵抗をしたのが私には解せないのですが・・。(太田)

 ですから、下掲のようなことを指摘する人もいます。↓

 「<始皇帝は、>母の不義密通が原因で女性不信だった?・・・<だから、>女は子を産めばそれでよく、妾だけで構わない<と思っていたのかもしれません。>
 <また、次のような可能性もあります。>
 始皇帝は、王の死後に、臣下がつける諡号(しごう)を「家来が主君を評価する怪しからん行為である」として、自らにつける事を許さず、自分の事は始皇帝と呼ばせ、以後は2世皇帝、3世皇帝と記録するように命じました。
 この考えなら、もちろん、自分の正妃である皇后に諡号を送るのもタブーという事になるので、始皇帝の皇后には諡号がなく、名前も分らないまま、現在に至っているという事も考えられます。実際、始皇帝が後継者と目していた、扶蘇の母は楚の女性だという記録があり、本来、諡号が許されていれば、記録が残った可能性もあるのではないかとも思えます。」
https://hajimete-sangokushi.com/2016/08/22/%E3%80%90%E3%82%AD%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%80%E3%83%A0%E3%80%91%E5%A7%8B%E7%9A%87%E5%B8%9D%E3%81%AB%E7%9A%87%E5%90%8E%E3%81%8C%E3%81%84%E3%81%AA%E3%81%84%EF%BC%9F%E3%81%9D%E3%81%AE%E7%90%86%E7%94%B1/

 この↑中でも示唆されているように、羋華の方は、全く根拠レスとは言えないようです。
 というのも、以前にも(コラム#13958で)ちょっと触れたことですが、藤田勝久<(注36)>が、扶蘇の母について、次のように指摘しているからです。↓

(注36)1950年~。京都府立大文卒、大阪市立大博士後期課程単位取得満期退学、同大博士(文学)、愛媛大行使、助教授、助教授、教授、名誉教授。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E7%94%B0%E5%8B%9D%E4%B9%85

 「楚の王族である昌平君<(前出)>たちは、なぜ秦王九年(紀元前238年)の時点で秦国の中心にいたのだろうか。これが扶蘇の母に関連すると想像するのである。秦王(後の始皇帝)の長子である扶蘇は、第一夫人の子だったはずである。『史記』には、なぜか始皇帝の夫人について、まったく記されていない。(中略)戦国時代の外交の延長として、婚姻や人質に客卿のような人物が付き添ってゆくとすれば、九年に楚の王族が滞在したのは、最初の夫人を楚から迎えた際の付き添いであることが推測される。だからその母から生まれた扶蘇は、楚の王室にもつながる人物であり(後略)」と論じ、扶蘇の母は楚の出身であると推測している。・・・
 二世元年(紀元前209年)7月、陳勝が仲間の呉広に図って、秦帝国と皇帝胡亥に対して反乱を計画する際に、扶蘇の民衆からの人気の高さを利用しようとして、「二世皇帝(胡亥)は末子であり、即位すべきものではなく、本当に即位すべきは公子の扶蘇であったようだ。扶蘇はしばしば、始皇帝を諫めてため、上(始皇帝)は外地にやり、兵を率いらせた。この度、どうやら罪もないのに、二世皇帝(胡亥)に殺されたらしい。天下の多くの民は扶蘇が優れた人物であることを知っており、まだ、彼が死んだということを知らない。すでに扶蘇は死んではいるが、私が衆人に偽って、公子の扶蘇であると自称して、天下に知らせれば、多くの人々が反乱に応じるだろう」と語った。その後、陳勝は、反乱を起こして、自分の正体は扶蘇であると詐称した。
 藤田勝久は、陳勝が扶蘇の名を詐称したことについて、「ここには何か、隠された理由があるにちがいない。この疑問を解く鍵として、項燕(秦と最後まで抵抗して戦った楚の将軍)が楚王に立てて一緒に戦った王族の昌平君という人物に注目したい。(中略)だからその(楚の出身である始皇帝の第一夫人の)母から生まれた扶蘇は、楚の王室にもつながる人物であり、また昌平君のイメージと重なる人物でもある。そして生死が不明な扶蘇が、項燕のような楚の将軍と一緒に蜂起したといえば、かつての反秦の戦いの再現のようになるのである。これが、陳渉(陳勝)たちが扶蘇を詐称しようとした社会背景の一つではないだろうか」と論じている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%B6%E8%98%87

⇒生きていた昌平君も死んでいた扶蘇も、どちらも、秦と楚の両方の王族の血をひいていた・・後者に関してはひいていた可能性が高い、だが・・わけであり、秦の短い天下から漢の長い天下への過渡期において、この「2人」が、権力の所在の転換を円滑化した、と、言えそうですね。(太田)