太田述正コラム#0114(2003.4.13)
<和辻哲郎とジョン・マクマレー(その2)>

 マクマレーは、1940年代に宗教的社会主義者として頭角を現す(http://www.americanhumanist.org/humanism/morain/appendix-1.html。4月3日アクセス)のですが、彼の哲学を一言で言えば人間の個性(identity)を、基本的に集団主義的(collectivist)なものでも個人主義的(individualistic)なものでもなく、社会的(social)なものと見るというものです。(http://www.anu.edu.au/HRC/activities/conference_archive/1997/emotion.html。同上)
(なお、「宗教的」社会主義者といっても、彼の「宗教」なるものは特定の教義を持たず、「他人に親切にすること(be nice to others)」 や「友情(friendship)」を重視する世俗的(secular)な汎キリスト教的(ecumenical)ないし自然宗教的なものでした。)
 マクマレーは欧米のこれまでの哲学が物事を理論的(theoretical)かつ自己中心的(egocentric)観点から見てきたことに批判的であり、哲学的分析を思弁家(thinker)としてでなくエージェント(agent)としての立場から行わなければならないと主張します。そしてエージェントとしての自分が何かするためには人間関係の「抵抗(resistance)」と「支え(support)」を受けることが不可欠だとします。(歩くためには地面の抵抗と支えが不可欠であるように・・。)赤ん坊が何かをするためには母親とコミュニケーションをし、母親によって助けてもらわなければなりませんが、大人の人間相互にも基本的に同じことが言えるというのです。
(以上、Macmurray, Persons in Relation, Faber 1961の要約((http://johnmacmurray.gn.apc.org/PIR.htm(同上))より孫引き)
 そして人間関係には、この母子関係のような個人的(personal)な関係と、仕事上の関係のような機能的(functional)な関係があるとし、両者は互いに相互依存関係にあるとしました。ちなみに、マクマレーによれば、個人的関係の総体が共同体(community)であり、機能的関係の総体が社会(society)であって、前者は宗教と係わり、後者は政治と係わります。
http://johnmacmurray.gn.apc.org/Discovering%20Macmurray.htm。同上)
 (マクマレーの哲学について、より詳しくは、http://www.psa.ac.uk/cps/1999/bevir2.pdfを参照。)

 いかがでしょうか。核心的部分において、和辻とマクマレーの考え方は生き写しとも言えるのではないでしょうか。(和辻も宗教的人間でしたが、その宗教観は「古寺巡礼」からも明らかなように、審美的なものであり、マクマレー同様自然宗教的なものであったと言っていいでしょう。)

4 マクマレーとブレア首相

 対イラク戦がほぼ収束した現在、米国のブッシュ大統領と英国のブレア首相との間でイラク復興過程における国連の関与の度合いについて、スタンスの違いが表面化してきました。
 振り返ってみれば、対イラク戦突入までの間も、ブレアはまずしぶるブッシュを説き伏せて(注)国連査察の再開(安保理決議1441号の採択)に漕ぎつけ、その後も対イラク戦の直接の根拠となる国連安保理決議の採択に向け、横を向いたブッシュをなだめすかしながら、(結局実らなかった)理事諸国への根回しに努めました。読者の皆さんも、国連をないがしろにするブッシュと尊重するブレア、という対照的な印象を二人に対してお持ちなのではないでしょうか。

 (注)ブッシュが昨年9月に国連で行った演説の中で「イラク問題を安保理にかける」と原稿になかった重大発言を行った。これは、この演説の直前までブレアとパウエル米国務長官がブッシュやチェイニー副大統領との間で綱引きを続けていたため。ブレアはブッシュらに繰り返し「単独で軍事的対処ができる米国のような超大国といえども、イラク問題はパートナーや同盟国と手を携えつつ対処しなければならない」と説き続けた。(http://politics.guardian.co.uk/iraq/story/0,12956,929464,00.html。4月4日アクセス)(http://politics.guardian.co.uk/iraq/story/0,12956,943975,00.html(4月26日アクセス)は、このくだりが原稿から落ちていたのは単純ミスで、ブッシュがアドリブでカバーした、と事実上訂正。ただし、それまでの経緯は同じ。)
 しかし、二人のスタンスの違いはそれだけではありません。
シリアやイラクに対するスタンスも、パレスティナ問題への取り組み方も、フランスやドイツへの接し方も、二人は明確に異なります。ブッシュはシリアやイランを敵視し、パレスティナ問題への取り組みが及び腰であり、対イラク戦に反対したフランスのシラク大統領やドイツのシュレーダー首相とは現在没交渉の状態であるのに対し、ブレアはシリアやイランと友好関係を維持し、パレスティナ問題への取り組みは積極的であり、シラクやシュレーダーと対話を欠かさないように努めています。(ブレアの対シリア政策については、コラム#97参照。)
 また、地球温暖化に関する京都議定書、民族浄化等の国際犯罪を裁く国際刑事裁判所についても、肯定的評価をするブレアと否定的評価をするブッシュという違いが見られるところです。

 このように見てくると一見ブレアは、覇権国でも超大国でもない英国にとってどちらも不可欠な存在であるところの米国と欧州双方、にいい顔をするため、単に両者の見解を足して二で割ったスタンスをとってきたようにも思えます。またこのようなスタンスは、たまたま英国の世論の大勢にも合致していることから、ブレアは要するにポピュリストなのだ、と評したくなる人もいることでしょう。
 しかし、ブレアが決して足して二で割る金丸的政治屋などではなく、小泉的ポピュリストでもないことは、彼が1997年の首相就任以来、尻込みする英国世論と欧州を叱咤つつ、シエラレオネ、コソボ、アフガニスタンそしてイラクと、次々に米国顔負けの積極的な対外軍事介入政策を遂行してきた点だけからも明らかです。
 ブレアの対外政策スタンスを支えるのは、他人のことを慮らなければならない、そのためにも国際秩序と国際機関を維持強化しなければならないという確固とした信念であり、この信念の根底にあるものこそ、ジョン・マクマレーの哲学なのです。
(以上、注記の内容以外は基本的にhttp://www.washingtonpost.com/wp-dyn/articles/A15395-2003Apr2.html(4月3日アクセス)による。なお、ブレアの国内政策スタンスについても同じことが言えるが、あえて立ち入らない。)

 ブレアは1970年代、オックスフォード大学在学中にマクマレーの著作に接して「頭を吹き飛ばされるような衝撃」を受けます。
 そしてマクマレー的な世俗的・自然宗教的宗教観を身につけた(現代英国ではめずらしい)敬虔な宗教的人間(国教徒)になるのです。
1993年にはブレアは、マクマレーが乗り移ったかのように、「我々は他人との関係の中で個性(identity)を失うことはありません。むしろ人間関係によってこそ我々の個性が実現されるのです。」という演説を行っています。
更に、1996年に出版されたマクマレーの著作集の序言に寄せて、ブレアは、「ジョン・マクマレーは、20世紀における最も著名な哲学者の一人とはみなされていない。これは私には信じがたいことだ。なぜなら、マクマレーの著作には近寄り難い雰囲気が全くなく文意も明快そのものだし、われわれが大学で使わされる諸々の定番教科書的著作のどれよりも役に立つ(relevant)こと請け合いだからだ。それだけではない。マクマレーには驚くほど現代(modern)性がある。個人と社会との関係という、21世紀における最も重要(critical)な問題に真正面から取り組んでいるからだ。」とマクマレーを絶賛しています。
http://johnmacmurray.gn.apc.org/Discovering%20Macmurray.htm。4月3日アクセス)
 まさにブレア、つまりは現在の英国の労働党政権はマクマレーの申し子なのです。

5 終わりに

 現在の世界を実質的にリードしているのは、bastardアングロサクソンたる覇権国米国を「善導」しつつ米国と手を携えて歩んでいる英国だとすれば、その英国の現政権を支える哲学にわれわれはもっと関心を持っていいのではないでしょうか。
 そして英国の現政権を支えるマクマレーの哲学が、同時代人である日本の和辻哲郎のそれと生き写しだということはいかなる意味があるのでしょうか。
 それは、アングロサクソン文明と日本文明の親和性がここにも現れているということです。
 アングロサクソン文明は個人主義文明だという側面があるのはまぎれもない事実(コラム#88、89参照)ですが、およそ個人主義だけで社会が成り立つわけがありません。そこにコモンローの伝統(コラム#90)等が果たしている役割があります。
 すなわち、アングロサクソン文明の全体像を見れば、それは決して個人主義文明なのではなく、「人間(じんかん)」的文明なのです。(米国がアングロサクソンのbastardたるゆえんは、それが極端な個人主義という病魔に犯されているところにもあります。)
 私は、日本文明が「人間」的文明であることを素直に表明したのが和辻だったのに対し、マクマレーはアングロサクソン文明が実は「人間」的文明であることを発見したのだ、と考えているのです。
 だから、かねてより私はブレアの政策に注目し、ひそかに声援を送っているのです。(終わり)

(コラムのバックナンバーを読みたい方は、http://www.ohtan.netの(時事)コラム欄にアクセスしてください。なお、民主党の鳩山さんらが唱えていた「友愛」というのはマクマレーから来ているのですかね。ご存じの方は教えてください。もっともそうだとすると、なぜわざわざ英国の哲学者のお世話になるのか、和辻がいるではないかと言いたくなりますし、マクマレーの忠実な弟子であるブレアの軍事介入政策に反対するのも首尾一貫しないことになりそうですね。