太田述正コラム#0256(2004.2.11)
<南京事件と米国の原罪(その3)>

 (2) ラーベのアジア人観について
  ア 始めに
ラーベは、1930年にドイツを離れてから1938年・・国民党政府へのドイツ軍事顧問団がヒトラーの命令で帰国させられた年でもある(321頁)・・に帰国するまで、祖国をずっと離れていましたが、ヒットラーが独裁権を掌握した1933年の翌年の1934年に、ヒットラーに心酔してナチに入党しています (320、325頁)。
ラーベは中等教育までしか受けていません(9頁)から当たり前と言えば当たり前ですが、ラーベの日記を編纂したドイツの元外交官にして歴史学者のヴィッケルトは、「立派な人間でありながらナチだった」ラーベのような「人間は、インテリでは<ありえ>ない」とご託宣をたれています(326頁)。
 ラーベがインテリであったのかどうかはともかく、中国国民党政府の「堕落」や日本軍による「虐殺」に憤りを覚えつつも、「堕落」や「虐殺」がなぜ起こるのか、その原因について、彼は若干躊躇しつつも、「ここはアジアだから」の一言で片付けてしまっています(コラム#252)。
 では、私がラーベに代わって、もう少し「アジア」なるものを解明してみましょう。

  イ 中国人について
 まず、中国人には伝統的に公(おおやけ)の観念がなく、支配者であれ被支配者であれ、みんな自己のエゴの充足だけを行動原理としてきました。
 しかも、当時の中国の民衆の教育水準は極めて低いものでした。
 こういう世界に、ソ連(ロシア)から民主主義的独裁の最新理論である共産主義(マルクス・レーニン主義)とそのプロパガンダ方法論が入ってきたことによって、「民主集中制」政党である、一卵性双生児たる中国型ファシズム政党の中国国民党と中国型マルクスレーニン主義政党の中国共産党が生まれます。両党は、どちらもナショナリズムを旗印にして中国の民衆をその隷下に囲い込もうと競い合います。
そのナショナリズムの最大の標的が日本であり、日本は徹底的にスケープゴートにされます。
国民党は、独裁的権力を握る党指導者達が、そのエゴを充足するための手段として、(一人ひとりがエゴの充足を追求しているところの)民衆の糾合を図りましたが、共産党は、同じく独裁的権力を握る党指導者たちが、資本主義の否定すなわちエゴの充足を公的には否定する形で、自らを律するとともに民衆の糾合を図ります。
(そして日本の敗戦後、中国共産党が、国民党との内戦に勝利を収めることになり、その中国共産党の支配下で、中国民衆は「エゴの充足を公的には否定」させられたが故の塗炭の苦しみ・・政治的迫害と失政による飢饉・・に呻吟することになります。)
 支那事変が始まった年に行われた南京攻防戦当時は、上記両党はその前年の1936年の西安事件を契機として久しぶりに協力関係(=第二次国共合作)に入っていました。
 以上で、南京攻防戦当時の中国人の言動の大部分は説明がつくと思います。もう一度、コラム#253の該当箇所を読み直して見てください。

  ウ 日本人について
 当時の日本市民、すなわち日本兵の教育水準はおしなべて中国人に比べてはるかに高く(注3)、彼らにはまた、自由・民主主義国(天皇の共和国(コラム#218))の一員としての明確な公の観念がありました。

 (注3)略奪中の自動車の持ち主がドイツ人だと分かって、英語で謝辞の「領収書」を書いて渡したユーモア感覚の持ち主の日本人兵士(将校ではない!)さえいた(140頁)。

 そのような日本兵が、どうしてあのような略奪、強姦、虐殺等の蛮行を南京で行ったのでしょうか。
 いやいや、日本兵は南京以外でも、日常的に同様の蛮行を繰り返していた可能性が高い、と思われます。というのは、南京での日本兵の蛮行は、南京に第三者たる外国人目撃者が多数いたからこそたまたま後で大問題になったけれども、これを国民党政府が当時非難した形跡がないからです。取り立てて問題視するほどのことでないからこそ、彼らは非難しなかったのでしょう。
 日本側においても、支那派遣軍の上層部に本件が伝わった形跡はありませんし、(ラーベによれば日本軍の蛮行を眉を顰めて批判的に見ていたはずの)現地日本大使館員が外務省の上司に本件を報告した形跡もありません。
なぜなら、何らかの形で報告がなされておれば、いくら何でも戦後の日本で長期にわたって「南京大虐殺まぼろし」説(369頁)が唱えられることはなかったはずだからです。

それは、こういうことだと思います。
清朝が倒れた後、中国は恒常的な内乱状況にあり、内乱当事者たる軍閥等の軍隊による蛮行は日常茶飯事でした。その「内乱」に1927年の山東出兵の頃から日本軍が一枚加わっただけだ、というのが国民党政権や日本軍の認識だったに違いありません。このような背景の下で、日本軍もまた、中国の軍閥等の軍隊の姿に「汚染」されて行きます。
しかも、満州事変もそうでしたが、そもそも、支那事変も「事変」であり、国民党政権も日本も宣戦布告をしなかったことから、「戦争」ではなく、両「国」間の国交断絶もありませんでした(22??23頁)。
従って、両「国」の間で「国際」法などどこかにすっとんでしまっていたのは当然のことだったのです。

 しかし、このような日本軍の一般兵士の欲望自然主義の発露たる規律の弛緩は、将校レベルにおける下克上的風潮の蔓延という形の規律の弛緩とあいまって、日本軍全体を麻痺させていきます。兵站の無視や劣悪な装備(と裏腹の関係にある精神力の過度の重視)等がその端的な表れです。
これらの根底には、確立してまだ日が浅かった日本の自由・民主主義がある、というのが私の考えです。中国の地で「汚染」された日本軍において、「自由」は欲望自然主義に、「民主主義」は下克上へと突然変異を遂げた、ということです。
つまり、現象的には同じ蛮行が、中国側と日本側とでは全く対蹠的な背景の下で行われていたことになります。

 エ 総括
帰国後、ラーベはドイツの敗戦を目の当たりにし、ソ連占領下の東独で餓えに苦しむ生活を送っていました。その頃の1947年、宋美齢がラーベに住居と年金を提供するので南京に移住しないかと言って寄越しました。東京裁判に検察側証人として出廷することが条件でした。
ところがラーベは、「私はかれらが死刑になるのを見たくはない。・・それは償いであり、ふさわしい刑罰には違いない。だが、裁きはその国民自らによつて下されるべきだと思うのだ」と言ってこの申し出を断ります。
中国側に自らの蛮行を裁く意思がない限り、日本の蛮行を裁くことなどおこがましい、ということでしょう。
そしてラーベは1950年に死去します。(以上、311??312頁)
しかし、このような「立派」なドイツ市民であるラーベらを党員としていたナチスは、中国軍や日本軍のやったことより比較にならないほど悪質な蛮行を行いました。数百万人にのぼるユダヤ人等に対する組織的計画的な虐殺がそうです。
一体数あるファシズムの中でも特異な、このような人類に対する罪をナチスが犯すに至ったのはなぜだったのでしょうか。
そこにはまたしても米国の姿が見え隠れしています。

(続く)