太田述正コラム#0260(2004.2.15)
<台湾の法的地位(続)>

2 米国等の主張

 (1)始めに
 前回(コラム#247)では、「中華人民共和国の主張」をご紹介しました。次は「米国の主張」をご紹介するのが順序であるところ、「米国「等」の主張」となっているのには理由があります。
 米国政府が、台湾の法的地位について、れっきとしたポジションペーパーを公表したことがないからです。(それがなぜかは、今回及び次回のコラムを読めば分かります。)そこで、学者の指摘や日本の主張を勘案しつつ、米国の主張を忖度する、という作業を行ってみました。
 その結果がこの「米国等の主張」です。(以下、リチャード・ハーツェル(Richard W Hartzell)の論考(http://www.atimes.com/atimes/China/FA31Ad05.html(1月31日アクセス))に拠った部分が大きい。)

(2)米国等の主張
カイロ宣言において、「臺灣及澎湖島」を「中華民國ニ返還スルコト」とあり、かつポツダム宣言第8項に「「カイロ」宣言ノ條項ハ履行セラルベク」とあり、日本が降伏に当たってこのポツダム宣言を受諾したことは事実だが、領土の帰属はあくまで日本との平和条約において確定されるべきものである(注1)。

(注1)日本政府は、カイロ宣言が「臺灣及澎湖島」を「日本國カ清國人ヨリ盗取シタ」としている箇所については、歴史的事実に反し「承服し得ない」(外務省平和条約問題研究幹事会「割譲地に関する経済的財政的事項の処理に関する<鈴木武雄東大教授>陳述」(キム・ワンソプ「親日派のための弁明」草思社2002年235??236頁より孫引き))というのが事実上の公式スタンス。
    なお、カイロ宣言そのものが、この宣言に米英中首脳の誰も署名していないことからそもそも無効だとする説(台湾の沈建徳博士等の説(http://www.wufi.org.tw/mail2k3/m030925.htm(2月2日アクセス)より孫引き))も有力。
これらの説によれば、日本の降伏と同時に台湾の主権が中華民国に移転(復帰)することなど、およそありえないことになる。

 その対日平和条約(サンフランシスコ平和条約)において、日本は「台湾及び澎湖諸島に対する一切の権利…を放棄する」とだけ規定された以上、同条約発効(1952年4月28日)まで日本に依然主権があった台湾及び澎湖諸島(以後、「台湾」と呼ぶ)の帰属は、爾後未定となった(注2)(注3)。

 (注2)カイロ宣言及びポツダム宣言を字義通り読めば、日本の降伏と同時に台湾の主権が中華民国に移転(復帰)したと解する余地がないわけではないが、仮に主権が中華民国に移転していたとしても、対日平和条約という後法によってその法的状況は覆されたと考えられる(戴天昭氏「台湾戦後後国際政治史」(メルマガ「「台湾の声」台湾人の独立願望その歴史的背景(中)2月5日」より孫引き))。
 
 (注3)日本は、対日平和条約の締結国ではない中華民国と、対日平和条約発効日に日華平和条約を締結し、同条約は1952年8月5日に発効する。同条約第二条に、「日本国は、・・サン・フランシスコ・・平和条約・・に基き、台湾・・に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄したことが承認される」とあるが、第十条に、「この条約の適用上、中華民国の国民には、台湾・・のすべての住民及び以前にそこの住民であつた者、並びにそれらの子孫で、台湾及び澎湖諸島において中華民国が現に施行し、又は今後施行する法令によつて中国の国籍を有するものを含むものとみなす。また、中華民国の法人には、台湾・・において中華民国が現に施行し、又は今後施行する法令に基いて登録されるすべての法人を含むものとみなす」とあり、台湾の住民は中華民国の国民であると「みなす」とすることによって、台湾の住民が中華民国の国民であること、すなわち台湾の主権が中華民国にあること、を日本が「承認」していないことが明確になっている(http://www.geocities.jp/nakanolib/joyaku/js27-10.htm及びhttp://www.geocities.jp/nakanolib/joyaku/js470929.htm(2月5日アクセス))。

 他方、1945年9月25日以降現在まで、台湾は、先の大戦における連合国を代表する米国軍事政府(United States Military Government =USMG)の軍事占領下にある(注4)。

(注4)対日平和条約発効までは、台湾の主権は日本にあり、発効以後は台湾の主権の帰属は未定となったが、発効以後も、台湾が軍事占領下にある事実に変化はない。ただし、対日平和条約発効以前は「敵対的占領」(belligerent occupation)であったが、発効以後は「友好的占領」(friendly occupation。より正確には「軍事政府による民事行政」(the civil affairs administration of a military government)となった。

すなわち、
1945年9月2日、ダグラス・マッカーサーは、上記軍事政府の長として、隷下の連合国各軍に一般命令第一号(General Order No 1)を発出し、中華民国軍に対し、主要占領当局(principal occupying power)として中国(東北部を除く)、ベトナム、及び台湾において日本軍の降伏処理にあたるとともにこれら地域を軍事占領するように命じた。(中国東北部(旧満州)はソ連軍が主要占領当局とされた。) 
この命令を受け、中華民国軍は1945年9月25日に台湾に進駐した。
(この日を中華民国は、台湾光復節(Taiwan Retrocession Day)、すなわち台湾の主権を回復した日としているが、中華民国が勝手にそう称しているに過ぎない。)

(続く)