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名無し@安全保障
2025/12/13(土) 23:47:41 ID:n+hv/9+v
>15〜16世紀にかけてのこのファシスト的メディチの歴代「王」達が、誰一人として、全イタリアとは言わないまでも、全北イタリア統一のために、フィレンツェの経済、文化、軍事力を総結集してあたろうとしなかったこと<が問題なのだ>。
すなわち、この「王朝」の創始者のコジモ・デ・メディチ(1389〜1464年)が、その1世紀余前の同じフィレンツェ人のダンテ・アリギエーリ(1265〜1321年)のイタリア統一の志を継がなかったこと<が・・>。
私見では、これを行わなかったことが17世紀央での大分岐
ああなるほど。ニッコロ・マキャヴェッリが「国民軍の創設を計画」したのにジョヴァンニ・デ・メディチ政権下ではめられ隠遁生活を送ったのは宜なるかな。
ジローラモ・サヴォナローラがフィレンツェの腐敗ぶりやメディチ家による実質的な独裁体制を批判し予言と称して「フランス王シャルル8世がイタリアへ侵攻してくる」
といったのは何も偶然じゃなかったのかも。
>イタリアの上澄みがイギリスのそれに比して、弥生性においても人間主義的統治志向性においても、甚だしく遜色があったからである
初期の傭兵隊長はイングランド出身者だし正にその通りなのでしょう。
当時は傭兵隊長に国の軍備を任せる状況下にイタリアはありましたからね。(コンドッティエーレ(condottiere)は、中世末期から近世にかけて活躍したイタリア人の傭兵)
傭兵隊長兼君主とはお笑いぐさ。
「...因みに、1500 年頃のヴェネツィア共和国の歳入は115万ドゥカーティ、同額の歳出のうち国債の利子償還が15万5千ドゥカーティであった。また、1475
年に死んだヴェネツィアの傭兵隊長コッレオーニは 23 万ドウカーティ余の現金を遺産の一部として残した。この金額は、当時最大の銀行家であったコジモ・
デ・メディチの富にも匹敵するものであった。(27)」(1ドゥカーティ約6万円)遺産は138億
「フランチェスコ・スフォルツァ(Francesco Sforza、1401年7月23日 - 1466年3月8日)は、ルネサンス期イタリアの傭兵隊長(コンドッティエーレ)で、スフォルツァ家最初のミラノ公」
「ジョン・ホークウッド(英語:John Hawkwood、1320年 - 1394年)は、14世紀イタリアにおける、イングランド出身のコンドッティエーレ(傭兵隊長)である。
百年戦争でイングランド軍に従軍した後に傭兵となり、イタリアに渡った」
「アルベリコ・ダ・バルビアーノ (1344年 - 1409年) は、最初のイタリア人コンドッティエーレ(傭兵隊長)である。イングランド出身の傭兵隊長」
「フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロ(Federico da Montefeltro, 1422年6月7日 - 1482年9月10日)は、イタリア・ルネサンス期のウルビーノ公国の君主である。傭兵隊長として活躍する」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%83%83%E3%82%B3%E3%83%AD%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%82%AD%E3%83%A3%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%83%E3%83%AA
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%82%AA10%E4%B8%96_(%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E6%95%99%E7%9A%87)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%AD%E3%83%A9%E3%83%A2%E3%83%BB%E3%82%B5%E3%83%B4%E3%82%A9%E3%83%8A%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%A9
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%83%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%A8%E3%83%BC%E3%83%AC
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%81%E3%82%A7%E3%82%B9%E3%82%B3%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%AB%E3%83%84%E3%82%A1
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%82%A6%E3%83%83%E3%83%89
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%99%E3%83%AA%E3%82%B3%E3%83%BB%E3%83%80%E3%83%BB%E3%83%90%E3%83%AB%E3%83%93%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%8E
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%87%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%B3%E3%83%BB%E3%83%80%E3%83%BB%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%83%86%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%AD
https://waseda.repo.nii.ac.jp/record/21477/files/ChichukaiKenkyujoKiyo_3_Hayashi.pdf
すなわち、この「王朝」の創始者のコジモ・デ・メディチ(1389〜1464年)が、その1世紀余前の同じフィレンツェ人のダンテ・アリギエーリ(1265〜1321年)のイタリア統一の志を継がなかったこと<が・・>。
私見では、これを行わなかったことが17世紀央での大分岐
ああなるほど。ニッコロ・マキャヴェッリが「国民軍の創設を計画」したのにジョヴァンニ・デ・メディチ政権下ではめられ隠遁生活を送ったのは宜なるかな。
ジローラモ・サヴォナローラがフィレンツェの腐敗ぶりやメディチ家による実質的な独裁体制を批判し予言と称して「フランス王シャルル8世がイタリアへ侵攻してくる」
といったのは何も偶然じゃなかったのかも。
>イタリアの上澄みがイギリスのそれに比して、弥生性においても人間主義的統治志向性においても、甚だしく遜色があったからである
初期の傭兵隊長はイングランド出身者だし正にその通りなのでしょう。
当時は傭兵隊長に国の軍備を任せる状況下にイタリアはありましたからね。(コンドッティエーレ(condottiere)は、中世末期から近世にかけて活躍したイタリア人の傭兵)
傭兵隊長兼君主とはお笑いぐさ。
「...因みに、1500 年頃のヴェネツィア共和国の歳入は115万ドゥカーティ、同額の歳出のうち国債の利子償還が15万5千ドゥカーティであった。また、1475
年に死んだヴェネツィアの傭兵隊長コッレオーニは 23 万ドウカーティ余の現金を遺産の一部として残した。この金額は、当時最大の銀行家であったコジモ・
デ・メディチの富にも匹敵するものであった。(27)」(1ドゥカーティ約6万円)遺産は138億
「フランチェスコ・スフォルツァ(Francesco Sforza、1401年7月23日 - 1466年3月8日)は、ルネサンス期イタリアの傭兵隊長(コンドッティエーレ)で、スフォルツァ家最初のミラノ公」
「ジョン・ホークウッド(英語:John Hawkwood、1320年 - 1394年)は、14世紀イタリアにおける、イングランド出身のコンドッティエーレ(傭兵隊長)である。
百年戦争でイングランド軍に従軍した後に傭兵となり、イタリアに渡った」
「アルベリコ・ダ・バルビアーノ (1344年 - 1409年) は、最初のイタリア人コンドッティエーレ(傭兵隊長)である。イングランド出身の傭兵隊長」
「フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロ(Federico da Montefeltro, 1422年6月7日 - 1482年9月10日)は、イタリア・ルネサンス期のウルビーノ公国の君主である。傭兵隊長として活躍する」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%83%83%E3%82%B3%E3%83%AD%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%82%AD%E3%83%A3%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%83%E3%83%AA
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%82%AA10%E4%B8%96_(%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E6%95%99%E7%9A%87)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%AD%E3%83%A9%E3%83%A2%E3%83%BB%E3%82%B5%E3%83%B4%E3%82%A9%E3%83%8A%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%A9
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%83%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%A8%E3%83%BC%E3%83%AC
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%81%E3%82%A7%E3%82%B9%E3%82%B3%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%AB%E3%83%84%E3%82%A1
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%82%A6%E3%83%83%E3%83%89
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%99%E3%83%AA%E3%82%B3%E3%83%BB%E3%83%80%E3%83%BB%E3%83%90%E3%83%AB%E3%83%93%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%8E
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%87%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%B3%E3%83%BB%E3%83%80%E3%83%BB%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%83%86%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%AD
https://waseda.repo.nii.ac.jp/record/21477/files/ChichukaiKenkyujoKiyo_3_Hayashi.pdf