>私は、それに加えて、▲から、イタリアをイギリスが抜いたのが17世紀後半に過ぎず、しかも、他方で、ドイツとスペインの水準は長期にわたってイタリアを下回っていたことに瞠目させられました。 Maddison Projectでも証明されてますね。
「マディソン歴史統計プロジェクトとしても知られるマディソンプロジェクトは、GDP、一人当たりGDP、労働生産性などの過去の経済統計を照合するプロジェクトです。」
https://en.wikipedia.org/wiki/Maddison_Project ・中世のイタリアはどれくらい裕福でしたか?ローマ時代のイタリアよりも裕福でしたか?他の現代ヨーロッパ諸国よりも裕福でしたか?本当に男性の識字率は30%だったのでしょうか?
「イタリアは、18世紀に地中海経済が大西洋貿易に追い抜かれるまで、ヨーロッパで最も生産的な経済(一人当たり)でした(そして、1820年頃までヨーロッパで3番目に繁栄した経済であり続けていますが、」
https://www.reddit.com/r/AskHistorians/comments/sjewgh/comment/hvi5ssl/ ・1500年、イタリアはヨーロッパで最も裕福な国でした。しかし、イタリア経済は植民地時代を通して完全に停滞した。1700年までに、ヨーロッパの3か国は一人当たりのGDPが高くなり、1820年までにほとんどの国はイタリアよりも裕福になりました。このような停滞の原因は何でしょうか?
https://www.reddit.com/r/AskHistorians/comments/mqrzqn/in_1500_italy_was_by_far_the_richest_country_in/ >上記中の、大分岐(大分岐(改))の「起点」は一体何だったのか 大黒死病ではないかと。それによって封建社会の危機と「再建」が必要となった
「...度重なるペスト禍と,それに伴う深刻な人口消耗は,1370年頃になる
と,人口復原力を上廻るにいたり,人口の減少の恒常化はしだいに厳しい経済的影響をおよぼす要
因となった。その結果としての,低落した農産物価格と高騰した手工業製品価格間のはさみ状格差,
農業労働賃金と手工業労働賃金間の格差は,全ヨーロッパを通じて,ほぼ1世紀半の期間中保たれ
たのである。それにともなって,農民の都市流入は激化し,都市の人口喪失分は農民の移住によっ
てすぐに補充されたが,農村内部でも移動は顕著で,それにともなって村落の共同体性は大いに動
揺し,新参者と土着農民とのあいだに紛争が絶えなかった。]
「イタリアでは,すでに封建的土地所有が解体し,市民的土地所有が一般化し
ていたが,不足した農業労働力誘致・定着のためには,地代収取条件を緩和するほかはなかった。
こうして近世イタリア農制を特徴づける折半小作制,いわゆるメッツァドリア制が出現し,拡大し
ていった。」
「イギリスの農村では,村落組織はなお保たれたが,その内部では,農地保有相続の混乱・
不安定の故に,血縁関係で結ばれた家系の土地に対する共同所有観念が動揺し,個人的所有観念が
優位を占めるにいたっていた。封建領主の農民支配は急速に弛緩していき,加うるに、ばら戦争な
どの戦乱における貴族家系の断絶・縮小,ジェントリ層と商人層の台頭,政界への参入によって、
脆弱なイギリス独特の絶対王制の成立となるのである。」
「南ネーデルラントでの黒死病の被害は,それほど顕著ではなかったようであるが,ほぼそ
れと同じ時期に「三都市」の毛織物工業が衰退をはじめ、代わって農村毛織物業が台頭する。三都
市の市政は、門閥支配から毛織物匠ギルド独裁支配を経て,門閥・手工業者妥協の政権が成立する。
しかし,フランドル毛織物の販売は,ドイツ・ハンザによって独占され,いわばその死命を制せら
れてしまった。その点で,のちに,自力で毛織物をバルト海沿岸,ロシアに売り込もうとするイギ
リスの決意と競争力に,一段劣ることになった」
「農民の大量死亡,移動にともなって,ヨーロッパ各地で,廃村,耕地荒廃が大規模に発生
した。とくにドイツで顕著であった。しかし,この農業危機は一時的にとどまり,むしろ農民たち
が生産効率の低い周辺耕地を放棄して,中心集落に集住する契機となる。集村が出現するのは大体
この時期であったようで,それにともなって,従来からの対領主闘争の力はより強められ,それは
やがてドイツ農民戦争へと結実する。農業生産それ自体をみると,いまや緻密な三圃制に編成され
た中,上質の耕地に,熟練した農耕労働が注がれ,生産力は高まり,これが穀物供給の過剰,その
価格の低さを維持する要因となった。」
「とくにフランスの貴族階級がもっとも苦しみ,その地代収入は1/3に低下したといわれる。国王,
大諸侯らは租税増徴などによって財政危機に対処するが,その租税が農民生産力を上廻るときは,
激しい闘争を呼び起こさざるをえない。1358年のジャックリーの一揆,あるいは1420年代のノル
マンディーにみられた農民の大量逃亡,ブリガン運動への参加など,その典型といえよう。しかし,
領主権力の再建は,結局,上昇した農民の生産力に依拠して行うほかはなかった。フルカンによれ
ば,領主直営地が折半小作に出されたのは,領主権の衰退を意味するのではなく,農民の生産力を
生かす,十分に計算されつくした行為であったといわれる。また16世紀の王権が,巨額の租税を徴
収しえたのも,農民の生産力を維持,育成した結果であるが,中,下級貴族,また都市ブルジョワ
出身の新貴族はこうした王権の行政官として,王権の統制下に入り,この「封建制の再建」によっ
てフランス絶対王政の基礎がおかれたのであった」
https://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/rb/595PDF/sehara.pdf