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太田述正 ★
2022/03/22(火) 06:46:37 ID:ohtanobumasa
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名無し@安全保障
2026/02/04(水) 16:21:02 ID:hr20fyep
いつもブログを拝見させてもらってます。
今回の選挙の報道を見る度に脳死もここまで来たかと憂鬱な感じになる毎日です。
話は変わるのですが、去年の11月末にツアー旅行で金沢の本山妙成寺という日蓮宗のお寺に行きました。
myojoji-noto.jp
住職の方がいつもは見せることはないという前田家の菩提寺の間という所を見せてくれました。
その間の両脇の襖には豊臣家の家紋がびっしりと沢山描かれており度肝を抜かれました。
また前田家の位牌が並んでいるところに徳川家の家紋が装飾品に小さく描かれており、住職曰く、前田家と豊臣家と徳川家の繋がりが江戸時代でも続いていた云々との説明を受けました。(豊富家の家紋の数に驚いてここら辺の話が少し曖昧です。
そして1番衝撃だったのが、前田家の当主が一年に一回訪れ、
菩提寺の間の襖を開けたところに小さな部屋で寝泊まりをするとの事。
そこに1段高いところがあるのですが、高いところに住職が座り、前田家の当主が一段下のところに座り話し合いをするのだそうです(説法?とは言ってませんでした。)
その後に住職と前田家の当主が同じ段の畳のところで寝るのがきまりだったそうです。
普通の人であれば、へーそういうこともあるんだな程度の事と捉えるでしょうが、住職と前田家の当主が一体どのような「話し合い」をしていたか太田ブログの読者であれば推測できると思います。
加賀百万石の前田家がここまでやってるのですから、太田さんの言う通り、江戸時代は秀吉コンセンサスが武家間で維持されている戦時体制というのが1番しっくりくると思います。
長文失礼しました。
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太田述正
2026/02/04(水) 18:30:14 ID:YkFNd4Kp
いやあ、こいつには驚きました。
利家もまつも日蓮宗信徒ではなく、当然、その間の子である利長も同様で、その跡継ぎは、利長の異母弟の利常だったことは知っていたけれど、利常の母が寿福院で彼女が日蓮宗信徒であったことは知りませんでした。
しかも、寿福院が、「徳川家康の側室蔭山殿<・・頼宣、頼房の母・・>と親しく、ともに日蓮宗を篤く信仰し<、>甲斐身延山久遠寺の五重塔、身延山奥の院思親閣祖師堂、正中山法華経寺の五重塔、鎌倉の長興山妙本寺の五輪塔、京都具足山妙顕寺の十一重石塔などを建立した他、安房国の誕生寺に法華経を奉納している。寛永8年(1631年)、加賀藩江戸屋敷にて死去。池上本門寺で荼毘に付された後、金沢の経王寺にて再び葬儀が行われ、能登の妙成寺に納骨された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BF%E7%A6%8F%E9%99%A2 とは!
利常には普通の戒名がつけられ、その墓所もウィキペディアには、単に、「野田山墓地」とあり
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E7%94%B0%E5%88%A9%E5%B8%B8 ましたから、彼が日蓮宗信徒じゃなかったのは明らかでしたしね。
だから、前田氏の日蓮主義度は大したことはなかったので、幕末期の加賀藩は、「鳥羽・伏見の戦いにおいては、王政復古の大号令を「薩州家奸臣共」のせいであるとし「内府様江御協力」するためとして出兵を決めている。しかし、鳥羽・伏見の戦いはわずか3日で決着。在京の家老・前田孝錫は朝廷に呼び出され、加賀藩の動向を「佐幕之国論」であるとして厳しく問い質される事態に。孝錫は「御国之興廃」に関わる一大事であるとして急ぎ国許へ使者を派遣、小松まで進軍していた軍勢は金沢へ引き返すというドタバタを演じた。その後、加賀藩は勤王で藩論を統一し、北越戦争にも新政府側で参戦している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E7%94%B0%E6%85%B6%E5%AF%A7 と醜態を晒した、と、思い込んでいた次第です。
しかし、後知恵的に申し上げれば、家康には、前田氏の危険性は分かっていたみたいですね。
「元和2年(1616年)4月、家康が死の床に就いた際、枕元に来た利常に対して「お点前を殺すようにたびたび将軍(秀忠)に申し出たが、<自分の娘を利常に嫁がせていた>将軍はこれに同意せず、何らの手も打たなかった。それゆえ我らに対する恩義は少しも感じなくてよいが、将軍の厚恩を肝に銘じよ」と述べたという(『懐恵夜話』)。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E7%94%B0%E5%88%A9%E5%B8%B8 前掲
なお、この利常は、嫡子の「光高の正室に家光の養女大姫(<日蓮主義藩である>水戸藩主徳川頼房の娘)を迎えて」もいます(上掲)ね。
これでは、むしろ、加賀藩の幕末の醜態をもたらしたものは何だったかを解明する必要が出てきました。
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太田述正
2026/02/04(水) 22:21:26 ID:YkFNd4Kp
解明は案外簡単でした。
前田綱紀(1643〜1724年)の「父・光高は正保2年(1645年)4月に31歳で死去した。このため、6月13日に綱紀が3歳で家督・遺領を相続することとなった。藩政に関しては祖父の利常(寛永16年(1639年)家督を光高に譲った)が後見することを、幕府より命じられた。・・・
万治元年(1658年)7月27日、綱紀は保科正之の娘・摩須と結婚する。・・・
万治元年10月に利常が死去すると、岳父の保科正之の後見を得て藩政改革を行なうこととなる。・・・
綱紀は正之の思想に大きく影響を受け、それはその後の彼の政策に反映されてゆくこととなる。綱紀の藩政を「正之の模倣」とする指摘もある。・・・
元禄2年(1689年)には将軍徳川綱吉から御三家に準ずる待遇を与えられ、100万石を誇る最大の大藩として、その権威を頂点にまで高めた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E7%94%B0%E7%B6%B1%E7%B4%80 ということを踏まえれば、hr20fyepクンが紹介してくれた前田氏の「伝統」は、恐らく利常が始めたもので、光高もそれを踏襲していたために、綱紀も人となった頃から踏襲せざるをえなかったものの、その時点で、この「伝統」は形だけのものになったのではないでしょうか。
というのも、綱紀に決定的な影響を与えたところの、彼の岳父の保科正之は、下掲のような人物だったからです。↓
「大姥局は、その侍女の静に秀忠を誘惑させて男の子をもうけさせ、この子を、光圀も真っ青の日蓮主義者、但し、そのもどき、にすることまでは成功したけれど、兄の家光に被った大恩により、光圀(や義直)のように、秀吉が着手して中断したままの唐入り的なものの再開を将来に期すところの、真正日蓮主義者にすることには失敗し、結果として、あろうことか、円滑な倒幕維新成就阻害元凶藩たる会津松平藩というモンスターを生み出してしまった、というわけだ。」(コラム#15396(未公開))
その結果、加賀藩は、見かけ上は日蓮主義藩ながら、実態は、反日蓮主義藩に堕してしまい、そのまま幕末を迎えた、と。
恐らく、それが朝廷や列藩にも意外だったからこそ、直ちに朝敵の烙印を押されずに「厳しく問い質される」だけで済んだのではないでしょうかね。
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太田述正
2026/02/05(木) 09:01:13 ID:LW7mZpvB
この程度の事柄の解明↑は、既に、生成AIでできるんじゃないかな。
時々、オフ会「講演」原稿のキモ的なものを予測してもらうってのをやってきたけど、あんなんも後数年にはできるようになるんでは。
私の法華経日本史観的なものを生成AIがでっちあげられるようになるのは、願うらくは、私が死ぬまでは不可能であって欲しいけどね。